日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:近藤勇

戊辰戦争最大の悲劇・・・会津戦争。
新政府軍の猛攻を受け、鶴ヶ城は開城・・・民間人も多く巻き込まれ、戦死者は2000人を超えました。
この時、会津藩を率いたのが松平容保。
義を重んじ、幕府に殉じた藩主というイメージが先行する中、その実像は意外なほど知られていません。容保が幕末についてほとんど語らなかったからです。

容保の運命を大きく変えたのが、京都守護職への就任でした。
京に乗り込み、一橋慶喜らと共に政治の実権を握りました。
しかし、変革の嵐はあまりにも激しく・・・
幕府を揺るがす薩長の台頭、思いもよらない長州征討での敗北、そして・・・朝敵とされた鳥羽・伏見の戦い!!
容保を次々と襲った究極の選択がそこにはありました。
その悲劇の真相とは・・??



会津若松市鶴ヶ城・・・松平家23万石の居城です。
天守閣にある博物館に資料が残されています。
描かれているのは、会津から遠く離れた浦賀湾・・・江戸後期、イギリスの帆船が通商を求めて来日した様子を描いたものです。
中央には巨大な異国船・・・その周囲を取り囲むように小舟が・・・
よく見ると、小舟には会津の旗印が・・・!!
実は江戸ののど元にあたる浦賀の警備を会津藩が引き受けていたのです。

江戸時代、泰平の世ということもあり、各藩、武備には力を入れていませんでした。
しかし、会津藩は日ごろ地元でも軍事訓練を続けていました。
だから、会津藩に白羽の矢が当たったのです。

会津藩は、親藩の中でも特に最前線で徳川将軍家を守ることを期待され代々それに応えてきました。
藩祖・保科正之定めた「家訓」
十五条の最初にはこうあります。

”大君の義 一心大切に忠勤を存ずべし”

将軍に絶対の忠誠を誓うことが歴代藩主に課せられた使命でした。
第9代藩主・松平容保は、18歳の若さで藩主の座を引き継ぎます。
高須松平家に生まれ、会津に養子に入った容保が、まず教えられたのがこの家訓でした。
この教えを胸に、容保は時代の荒波に立ち向かっていきます。

時は幕末・・・京では尊王攘夷の火が燃え盛っていました。
導火線に火をつけたのが長州藩・・・
その狙いは、幕府の開国政策の阻止でした。
藩士を京に送り込み、異国排斥を訴え、朝廷の有力公家たちを味方につけていきます。

長州に呼応するように、過激な攘夷派の浪士が続々と京に集結。
幕府に近い公家の家臣などを標的に、テロを繰り返します。
この事態に幕府が頼ったのが、会津藩でした。
新たに設けた京都守護職に容保の就任を命じました。
その任務は、京に千人規模の軍隊を駐屯させ、治安を守るというものでした。
当然、巨額の費用も見込まれます。
家臣たちは、”薪を負うて火を救う”ようなものだと反対の声をあげました。
都での動乱に巻き込まれることを逡巡しながらも、容保は幕府の要請に応えることを決めました。

「我が会津藩は、徳川宗家と存亡を共に存亡すべし定められている
 君臣、ただ京の地を以て死所となすべきである」by容保

1862年12月、会津藩上洛。
容保は会津藩兵を率いて京に到着しました。
御所からおよそ2キロ・・・金戒光明寺は京都守護職の本陣が置かれた寺です。
容保が使った部屋が当時の姿に復元されています。
ここで容保は、京の治安回復の指揮を執りました。

1863年3月・・・この広間で容保と対面したのが、新撰組局長・近藤勇でした。
後に新撰組になる若い浪士たちと容保が初めてであったのもこの寺の境内でのことでした。
土方歳三や沖田総司らの腕前に期待を寄せた容保は、彼等を京の治安維持に用いました。
会津藩御預新撰組は、攘夷派の取り締まりに大いに力を振るいました。
守護職・会津によって、京の治安が回復に向かったことを誰より喜んだのは・・・時の孝明天皇その人です。
初めて謁見した際、天皇は容保の功績を称して、緋色の衣を下賜しました。

katamori

この時の陣羽織がそれです。
容保は大いに感激し、守護職の任務への思いを新たにしました。

しかし、その一方で、長州藩の動きは過激さを増していきます。

1863年5月、長州藩が下関海峡で外国船を砲撃。
長州藩は、攘夷派の公家と共に、更なる計画に動き出しました。

孝明天皇を神武天皇陵へ行幸させ、攘夷戦争の御前会議を開く
というものでした。




この計画が実現すれば、天皇の名のもとに外国へ宣戦布告するにも等しい・・・!!
対外戦争の危機が寸前に迫ったその時・・・!!
容保のもとに外様の大藩・薩摩からの報せが届きました。
長州と攘夷派公家に対するクーデターに、会津藩の協力を求めてきたのです。
容保はすぐに決断、会津藩士に薩摩と行動を共にすることを命じました。
そして、事態を知らされた孝明天皇からの極秘命令が容保に届きます。

”会津の兵力を以て、国家の害を除くべし”

1863年8月18日、政変の幕が切って落とされました。
会津藩兵が御所の門を封鎖し、長州に与した公家の参内を阻止、彼らを排除した朝議でその処分が決められました。
朝廷を牛耳っていた攘夷派公家たちは官位を剥奪、御所警備を解かれた長州藩と共に西国へと落ち延びていきました。
尊王攘夷派は、都から一掃されたのです。

事件のあと、孝明天皇から容保に下された直筆の和歌・・・
自分の意をくんで攘夷派追放に働いてくれた容保の忠誠に対し、天皇はこう詠んでいます。

武士と心合わして いわおをも貫きてまし 世世のおもひで

天皇と武士が心を合わして、国の難局に当たっていくことを望んだ孝明天皇・・・
容保もまた、朝廷と幕府が一体となって政治を行う公武合体の実現を自らの使命としていくのです。


1864年7月、失地回復を目論んだ長州藩が、京に進軍!!
御所を舞台に激しい戦いが繰り広げられました。
禁門の変です。
この時容保は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜らと共に出陣し、長州藩を撃退しました。
この結果、権力を掌握したのが一会桑・・・
容保と慶喜に桑名の松平定敬を加えた体制でした。
一会桑が目指したのは、江戸の幕府と京の朝廷をつなぐことです。
幕府が独断で政治決定を行う幕府専制から、朝廷の意思を組んで幕府が政治を行う公武合体への転換を図ろうとしました。

一方、禁門の変で御所に向けて発砲した長州に、孝明天皇は激怒。
7月23日、幕府に対し朝廷長州を討つべしと、長州征討の勅令を下しました。
この時、容保は江戸に書簡を送っています。
それは、将軍直々の上洛の要請です。
将軍・家茂を上洛させ、その後も京に常駐させることで、朝廷との意思統一を図り、公武合体を推し進めようという狙いでした。
ところが、容保の意図を阻止したのは、江戸の幕閣でした。

”容保公は単に京都守護職に過ぎない
 将軍の進退について、口を出すべきにあらず”

容保や会津藩は、朝廷と幕府が強調する・・・それが前提として幕府は存続できるという考えでした。
禁門の変みたいな重大な事件が起きれば、将軍自身が征夷大将軍として出陣をして、京都に行って将軍の誠意を見せる、朝廷の信頼を得るという考え方でした。
対して江戸の幕閣は、過去2度、将軍は上洛したが、朝廷や諸藩に振り回されて将軍の権威が失墜したと考えていました。
ここで、上洛をするということに対して非常に及び腰で、現状認識、危機感といううえで差がありました。

結局、家茂の上洛は持ち越され・・・代わりに征長総督に任命された尾張藩・徳川慶勝のもと、35藩・総勢15万の大軍が進発します。



1864年、第一次長州征討!!
全軍は、11月11日までに5つの攻め口に着陣。
1週間後に総攻撃を決しました。
ところが、ここで思わぬ動きを見せたのが薩摩藩でした。
薩摩は会津と共に長州排除に動いたものの、その後、一会桑によって政治の中枢から遠ざけられていました。
長州征討が成功し、一会桑の勢力がさらに強固になるのは好ましいことではなかったのです。
11月、征長軍参謀にあった西郷隆盛は、単身・岩国を訪れ、長州藩との交渉に臨みました。

”長州藩は速やかに禁門の変を主導した三家老を処分
 その首級を届けるべし”

過酷な処分のように聞こえますが、西郷は裏ではこの要求さえのめば攻撃を中止させ、その後も寛大な処分に動くことを長州に約束していました。
長州はこれを受諾、三家老を処刑し、恭順の意を示しました。
ここに、征長軍は、戦うことなく解兵することとなりました。

この時期、容保の元には、京都守護職をやめ、会津に戻ってくることを願う国元からの要請が度々寄せられていました。
しかし、長州征討が一段落した後も、容保はこう返答しています。

「自分が京にいるからこそ、薩長も好き勝手が出来ない
 引き上げた場合、どのような事変が生じるかわからない」by容保

第一次長州出兵は、三家老の首を長州藩が出して、一応終息しています。
しかし、問題はそれで終わっていません。
長州藩に対する朝敵としての具体的な処分を、京都で決めないといけません。
中途半端なところで帰っても、孝明天皇の信頼に応えることもできないし、幕府に対する責任を果たすことができない!!
京で自分が果たすべき使命がまだある・・・!!
容保は、守護職留任を決断しました。

1864年12月、長州で一大事変が勃発しました。
幕府への抵抗を掲げる高杉晋作らが決起、恭順派との内戦に勝利し、藩の主導権を握ります。
彼等は、藩内の武装を強化、表面上は幕府に恭順するが、いざとなれば戦争をも辞さないという方針でした。
この動きを察知した幕府は、
”長州藩内に容易ならざる企てがある
 御所からの要請もあったので、討伐のため将軍自ら出陣する”

朝廷にとっては寝耳に水でした。
天皇は軍事行動など命じていなかったからです。
急遽、説明のため参内を命じられた容保たちは、苦しい弁明を展開することになります。

「征伐」=将軍が大坂へ上る「進発」の意味に過ぎない

容保の言い訳の背景には、幕閣の計画を敢えて利用しようという狙いがありました。
容保たちから見れば、将軍を江戸から引っ張り出す千載一遇のチャンスでした。
将軍を上洛させて、長期間滞在させることで、朝廷と幕府が一体化、長州処分を執行することで、朝廷と幕府の権威が維持できる・・・!!

結局、朝廷も幕府の追討令を追認・・・
1865年5月、将軍・家茂は、江戸を進発し、大坂城に入りました。
11月、広島に目付が派遣され、長州の陰謀を糾問。
これに対し、長州側は、陰謀など事実無根だと弁明しました。
藩内への立ち入り調査も拒否され、使者は引き下がざるを得ませんでした。

どうにも不審な長州の態度に、老中が急遽状況。
一会桑との間で、対応が話し合われることとなりました。
この時、長州の軍事討伐にこだわった老中は失脚し、その顔触れは穏健派に代わっていました。
長州の態度にはあいまいな部分があるが、再度詰問すれば、紛糾し戦の恐れがある・・・
戦争を避けるためには、藩主親子の謹慎や、領地の削減など、寛大な処分にとどめるべき??

これに反発したのが一橋慶喜でした。
道理を曲げて寛大な処分を下すことに断固として反対しました。
反逆者への処分がうやむやになるようでは、幕府と朝廷の権威失墜を天下に示すことになる・・・!!
いざとなれば戦う覚悟で再度使者を送り、疑惑を徹底究明すべきだ・・・!!

果たして、容保はどちらに与すべきか・・・??

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容保の選択を伝える記述が越前藩の記録に残っていました。

”長州問題を巡って、一橋と老中は一旦決裂したが、その後、会津と桑名がとりなしたことで、両者は再協議することになった
 会議が物別れに終わると、容保が動いていた
 慶喜に直談判!!老中との再協議を説得した”

容保の選択は、長州に対する寛大な処分でした。
改めて開かれた会談で、長州処分最終案は・・・
・藩主父子の隠退
・領地10万石の削減
・朝敵の名は除く
でした。

1866年2月、長州藩に処分案を伝達、返答期限は5月29日に・・・!!

しかしこの時、容保の知らないところで歴史は大きく動いていました。
1866年1月・・・薩長同盟締結

”長州の朝敵の汚名を晴らすため、薩摩はいかようにも尽力する
 一会桑が邪魔立てするようならば、決戦に及ぶ”

長州は、処分を断固拒否し、徹底抗戦の意思を固め、薩摩もその支援を確約していたのです。
当然返答期限に長州の返事が届くことはありませんでした。
幕府の面目をつぶされたことに、慶喜は激怒。
6月7日、孝明天皇から一橋慶喜に長州征討の勅許が下ります。
開戦に踏み切りました!!
もはや、容保に止める術はありませんでした。
1866年6月、第2に長州征討の戦端が開かれました。
薩摩の援助で入手した最新式の武器が、幕府軍を圧倒していきます。
実はこの戦いには、精強を誇る会津藩兵が導入されていません。
容保は、この戦が、長州と会津の私戦と受け取られることを危惧し、出兵に踏み込めませんでした。
しかし、その後、会津兵を欠いた幕府は、各地で連戦連敗・・・
戦局を変えるべく、遂に出陣を決意します。
しかし、予期せぬ事態が待ち受けていました。
1866年7月20日、将軍・家茂が大坂で病死。
後を託された慶喜は、容保の必死の説得にも応じず、戦を続けることを断念・・・
第2次長州征討は、幕府の敗北に終わりました。
そして、更なる事態が容保を襲います。
1866年12月25日、孝明天皇崩御。
これをきっかけに、まるで崖を転がり落ちるかのように容保は窮地に追い込まれていきました。



1868年1月3日、鳥羽・伏見の戦い
会津は、徳川慶喜擁する旧幕府方として、薩長を中心とする新政府軍と戦火を交えました。
火力の差は歴然でした。
そして・・・新政府軍が、戦場に錦の御旗を掲げると・・・
朝敵に名指しされた慶喜は戦意喪失、海路を江戸へと帰ってしまいました。
傍らには、容保の姿もありました。

容保の小姓の手記「浅羽忠之助遺録」
容保の会津藩主就任以来そのそば近くに仕えた小姓です。
家臣に一言も告げず、戦場を離脱した容保に対し、忠之助はこう記しています。

「このような苦戦になり、死傷者も多く出ている
 それをお見捨てになって、お立ち退きとはあってはならない」

決死の逃避行の末、江戸にたどり着いた忠之助は、主君に拝謁し、そのことを諫言しました。
容保は、ただこう返したといいます。

「誠に失策の至りであった」

1868年閏4月、会津戦争
朝敵とされた会津は、新政府軍の猛攻に晒されました。
2500発もの砲弾を撃ち込まれ、鶴ヶ城は開城。
老人や女性、子供にまで多くの犠牲者を出し、会津戦争は終結しました。
鶴ヶ城のほど近くにある御薬園・・・
降伏ののち、死罪を免れた容保は、明治に入ってから数年間、この地で過ごしました。
公武合体の実現をひたむきに追い求め、夢破れた容保・・・

家訓十五箇条が会津藩の憲法でした。
「大君」は、将軍家であるとともに、帝・皇室であると考えていました。
帝と武家が、手を取り合って平和な国を作っていこうと・・・
これが、激しい時代の中で、全く逆の立場に立たされたのです。
自分は戦争責任者・・・
会津の罪もない人たちに大変な塗炭の苦しみを味あわせてしまった・・・
このことを、何より悔いていました。

会津戦争から25年・・・1893年、松平容保死去。
容保は59歳で没しました。
その亡骸は、会津の山中で、静かに眠っています。

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黒船が来航し、開国か攘夷かでゆれる幕末・・・日本事象最強と言われる剣客集団が京都で誕生しました。
新撰組と言えば、局長・近藤勇と鬼の副長・土方歳三です。

”近藤に誤謬なきは歳三ありたればなり”

近藤が過ちを犯さなかったのは、歳三がいたからこそ

と言われるほど、実質的に新撰組を取り仕切っていたのが土方歳三でした。
その人生は波乱万丈・・・!!
それでも最期まで新撰組として戦います。
江戸から明治へと時代が変わりゆく中、儚く散った新選組・・・土方歳三の生き様とは・・・??

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1835年武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農の家に10人兄妹の末っ子として生まれました。
父は歳三が生まれた年に病で病死。
母も6歳の時に他界しました。
歳三は、年の離れた兄夫婦に育てられました。
11歳と17歳の時、江戸の商家に奉公に出ます。
しかし、二度とも長続きせずに出戻って来てしまいました。
土方歳三は、2番目の姉・のぶの夫で日野宿の名主だった佐藤彦五郎の家など親戚の家に入り浸ります。
そこで、運命的な出会いを果たすことになります。

朋友との出会い・・・
土方は、17,8歳で武道を志し、立派な武人になって天下に名を上げようとして家の隅に矢竹を植えました。
しかし、江戸時代は、武家に生れたもの以外は、武士になることは難しかったのです。

土方が生まれる少し前・・・文化文政年間。
江戸近郊の村々にも急速に貨幣経済が浸透します。
それに乗じて農民の中には、高利貸しや質屋、酒作りなどを兼業するものが現れます。
彼等は商売で得たお金を使って、周辺の土地を買い集め、やがて豪農としてのし上がっていったのです。
土方の家も、「石田散薬」の製造販売で財を成していました。
その一方で、幕府の取り締まりを逃れようと博徒たちがやってきてしばしば賭場を開いていたので、多摩など関東の農村にならず者が集まり、治安は悪化。
そこで幕府は、集落のリーダー的存在だった豪農たちに、名字を名乗ることを許し、刀の所持・・・帯刀を認め、彼等に治安の維持を一任したのです。
このことが、豪農たちの意識を変えました。
名字帯刀を認められることは、武士と同様の刺客を与えられることを意味していました。
身分は農民でしたが、「身上り願望」・・・豪農たちには士族の身分に上がりたいという願望が強かったのです。
御家人に多額のお金を払い、家格を買い取るなどして実際に武士になる豪農もいました。

帯刀を許された豪農たちは、剣術の習得に励みます。
土方が育った多摩で一大勢力を誇っていた剣術の流派が、天然理心流です。
土方の義理の兄・佐藤彦五郎の家にも、天然理心流の師範が出稽古をつける道場がありました。
その為、彦五郎の家に入り浸っていた土方は、自然と剣術を学ぶようになります。
そして、そこへ江戸から指導にきていたのが、後に天然理心流宗家となる近藤勇でした。
一つ年上の近藤もまた多摩の豪農出身ということもあり、2人は意気投合。
やがて土方は、江戸にあった天然理心流の道場「試衛館」に通うようになり、若き日の沖田総司、長倉新八などと出会うのです。

土方が正式に天然理心流に入門したのは25歳の時でした。
10代の頃から彦五郎の道場で剣術を学んでいました。
実家で作っていた薬の行商を手伝っていて、薬箱に武具をくくりつけて売り歩いていました。
色々な流派の道場で、他流試合をし、腕を磨いていたようです。
天然理心流は、他流試合を禁じていたので、なかなか入門しませんでした。
正式に入門した2、3年後には、近藤に代わって門人の指導にあたっていました。
剣の腕前は相当でしたが、沖田総司には敵わなかったようです。
土方は、生涯独身で過ごします。
兄たちが世話した許嫁はいたようです。
江戸の三味線屋の看板娘でしたが、彼女をおいて京都へ行ってしまいました。

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いざ、京都へ
1862年、14代将軍徳川家茂が、京都の孝明天皇のもとへ参上することが決定します。
幕府将軍の上洛は、3代将軍家光以来・・・229年ぶりのことでした。
この頃、開国を進めていた幕府は、外国勢力を追い払う攘夷を主張する孝明天皇を懐柔しようと朝廷と共に政治を行う公武合体を進めており、家茂が京都で孝明天皇に拝謁することで、それを世に知らしめようとしていました。
しかし、当時の京都は、幕府に不満を抱き、天皇を敬い攘夷を唱える尊王攘夷派の浪士が暴れ回り、無法地帯と化していました。
そこで幕府は、浪士には浪士をぶつけようと・・・
江戸周辺の浪士たちを募って「浪士組」を結成します。
彼等に京都の浪士たちを取り締まらせ、家茂の警護に当たらせようとしました。
浪士組には、幕府に忠誠をつくし、腕に覚えのある者なら誰でも応募が出来ました。
無事、警護を務めれば、幕臣に取り立てられる可能性までありました。
それを聞きつけた土方は、武士になれると、近藤勇、沖田総司らと共に浪士組への参加を決めました。
土方が育った多摩地域は、江戸の西に接しています。
多摩は幕府の直轄領が多い地域で、西から敵が責めてきたときに、まず、多摩の地域で防衛することが想定されていました。
多摩の地域は、江戸を守る防衛線・・・自分達が江戸の町を守るという意識が高かったのです。
そんな土地柄で育った土方らは、将軍家茂の警護は自分たちの警護だと考えていました。

1863年2月8日、土方は故郷を離れ、将軍警護のために京都に向かいました。
この時、29歳。
京都についた土方たちは、会津藩お預かりとなります。
藩主の松平容保が京都守護職で、京都の治安維持と御所の警備などを担う役職でした。
その容保のもと、近藤や土方など試衛館のメンバーは、水戸出身の芹沢鴨の一派などと壬生浪士組を結成し、将軍家茂の警護を務めたのです。

1863年6月、14代将軍・家茂が江戸へ戻ります。
壬生浪士組は、引き続き会津藩預かりとして京都に残ることになりました。
その2か月後・・・八月十八日の政変が起き、朝廷とつながっていた攘夷派の長州藩やそれを擁護する公家たちを京都から追放することに成功します。
その際、会津藩と共に壬生浪士組は御所の警護に当たっていました。
その功績が認められ、新たに”新選組”の名が与えられたのです。
新選組は、かつて会津藩にあった剣客集団と同じ名前で、容保は期待を込めて、壬生浪士組に与えたものです。

新選組が誕生しましたが・・・
近藤勇と芹沢鴨の2人が局長の座についていたため、近藤派と芹沢派に分裂・・・
水面下でし烈な派閥争いが生じていました。
そんな中、鬼の副長・土方が、近藤勇中心の組織にすべく、冷徹なまでの一手に出るのです。

鉄の掟4箇条

一、武士道に背くことをしてはならない
二、局を脱走してはならない
三、勝手に金策をしてはならない
四、勝手に訴訟を取り扱ってはならない

禁を犯した者は切腹!!
厳しいものでした。
隊士の数は結成当初は24人でしたが、徐々にその数は増えていきました。
隊士は様々な身分から集まっており、地域も・・・千差万別でした。
そんな隊士をまとめるために、厳しい規制が必要だったのです。
しかし、その掟に従わないものがいました。
近藤勇と共に局長の座についていた芹沢鴨です。
芹沢は、活動資金と称して、豪商からお金の無心をします。
断わられるとその店を焼き討ちにすると脅迫しました。
さらに、力士たちと乱闘騒ぎを起こしたり、遊郭で遊女たちに乱暴を働くなど、その狼藉三昧は目に余るこのがありました。
これに激怒したのが、統括していた会津藩主・松平容保でした。
会津藩の沽券に関わる・・・もう一人の局長・近藤勇に、芹沢を処分するように命じます。
そこで動いたのが土方歳三でした。
土方は、芹沢を宴に誘い出し、たっぷりと酒を飲ませます。
そして、酔いつぶれた芹沢が屯所に戻り寝入ったところを・・・沖田総司らと共に襲撃し、惨殺したのです。
土方は、局長の近藤にカリスマ性を・・・と、自らはその為に、汚れ役に徹することで組織を円滑に運営していこうとしました。
時に冷徹なことも引き受けたことで、鬼の副長と呼ばれたのです。
こうして新選組は、局長の近藤勇と副長の土方歳三を中心とした組織へと生まれ変わるのです。

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1864年6月5日、そんな新選組の名を世に知らしめる事件が起きます。
池田屋事件です。
この日の朝、尊王攘夷派の協力者を捕縛します。
その男の家から大量の武器が見つかりました。
何かを企んでいると察した土方は、拷問にかけると・・・男はたまらず白状します。
長州藩が、尊王攘夷派の志士たちを使い、近々京都市中に火を放ち、孝明天皇を聴衆に連れ去ろうとしている計画が発覚したのです。
新選組は、なんとか阻止しようと近藤隊と土方隊の二手に分かれて捜索を開始。
やがて、近藤隊が池田屋で尊王攘夷派の志士たちを発見!!
知らせを受けた土方隊も池田屋に急行!!
新選組は、見事な連携で7人を討ち取り、4人を手負いにし、23人を捕縛しました。
京都の町と天皇を守ったのです。

新たな野望
局長・近藤勇のもと、新撰組を京都の治安を守る警察組織へと変貌させていった鬼の副長・土方歳三。
新選組は、京都の町で暗躍する尊王攘夷派の志士たちに畏れられる存在となりました。
そんな中、八月十八日の政変で京都から追放され、朝廷への影響力を失った長州藩が、7月19日、朝廷での復権を目論み、兵を率いて上洛・・・禁門の変を起こします。
しかし、御所を警備する会津軍や薩摩軍らの反撃にあい、長州軍は敢え無く敗走。
逃げる際、御所に発砲したため、朝廷は長州藩を朝敵と見なします。
幕府に長州藩を追悼するように命じます。
長州征討です。
これを聞いた土方は、「今こそ新選組の力を見せようぞ!!」と、新選組を発展させる新たな野望を抱きます。

土方が作成した”行軍録”・・・組織の編成表が書かれています。
長州征討に参加させるために書いたものです。
長州征討は、1864年と1866年の2度にわたって行われました。
土方は、新選組が招集されることを想定し、従軍した際の隊列を考え、行軍録に記したのです。
その編成を見ると・・・
中心には土方自身を、後方に近藤を配しています。
注目すべきは、部隊先頭に書かれた大銃隊、小銃隊です。
新選組は、軍備の洋式化を進めていました。
幕府は、フランスをバックに軍制改革をしていました。
その一環として、会津はもちろん、新選組も最新の軍備を進めていたのです。
長州征討が決まってすぐに、江戸で隊士の募集を行い、近藤は24人を連れて帰ります。
そんな近藤に宛てた手紙の中に、土方は、新選組隊士たちが毎日西洋式の砲術訓練を行っていることを報告しています。
土方は、組織を拡大し、西洋式軍備を進めることで、新選組を警察組織から軍隊組織に変貌させようとしていたのです。
結局、幕府は今まで通り、新選組を京都に残し治安維持にあたらせたため、新選組が長州征討に加わることはできませんでした。

1867年6月、新選組にとって嬉しい出来事がありました。
幕府直参の見廻組格となり、隊士全員が幕臣となったのです。
土方歳三は、見廻組肝煎格として70俵5人扶持が与えられました。
この時33歳。武士になるという大きな夢を抱き、29歳で江戸を発ってからわずか4年ほどでその夢を叶えたのです。
しかし・・・半年後、260年余り続いた江戸幕府が滅亡してしまいました。

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晴れて幕臣に取り立てられ、武士となった新選組でしたが、4か月後には15代将軍・慶喜が大政奉還。
それを受け、王政復古の大号令が発せられたことで、仕えるべき江戸幕府が滅亡してしまいました。
それでも、新選組、副長・土方歳三の幕府への忠誠心が揺らぐことはありませんでした。
1868年1月、旧幕府軍は、新政府軍と京都で激突。
鳥羽伏見の戦い・・・戊辰戦争の始まりでした。
新選組も、旧幕府軍として戦いに参加。
しかし、旧幕府軍がわずか3日で敗走・・・慶喜の指示によって、新選組は江戸へと向かいます。
土方は、鳥羽伏見の戦いを振り返り、こう述べたといいます。

「もはや銃や大砲の時代である
 刀や槍ではとても勝てない」

新選組自体は、近代化、西洋化されてきていました。
しかし、大きな戦いは初めてでした。
改めて、西洋式の軍隊としての訓練が必要だと考えたのです。
鳥羽伏見の戦いの敗戦で、新選組を西洋式の軍隊に変える必要性を痛感した土方。
江戸で、最新式の銃と共にマントやズボンを購入。
土方自身が洋服をまとい、髷を落としたのはこの頃だと言われています。
しかし、この新選組の軍隊かが思わぬ不協和音を・・・!!

盟友との別れ
江戸に入って2か月後・・・
新選組は、甲斐国の治安維持のために甲府に向かいます。
しかし、新政府軍がすでに甲府の町を占拠。
新選組はその手前、勝沼で新政府軍と激突します。
土方は応援を呼ぶために離脱!!
しかし、残った近藤らは、圧倒的な戦力の差によって2時間ほどで大敗してしまいました。
その直後、試衛館時代からの盟友・永倉新八や原田左之助らが脱退を表明。
永倉、原田など初期メンバーは、感情的にも不満がたまっていました。
そもそも新選組は、平等で同志的な関係性でした。
これに対して、近藤や土方は、上下関係がはっきりした関係性に切り替えたかったのです。
自分たちの意見が通らない・・・彼らの離脱は止む終えないことでした。

その1か月後・・・
近藤と土方は、新選組を立て直すべく200人以上の隊士と共に下総の流山に陣を張っていました。
すると、いつの間にか新政府軍に囲まれてしまいます。
隊士のほとんどが出払っていたため、陣には近藤と土方と数人のみ。
とても太刀打ちできない・・・と、観念した近藤は、切腹する覚悟を決めました。
しかし、土方は・・・

「ここで割腹するのは犬死にだ
 ここは近藤さんが出頭して、自分たちは徳川の脱走兵を鎮圧するための部隊だと言い張ってくれないだろうか」by土方歳三

少し前から、近藤はもしもの時のために、大久保大和という偽名を使っていました。
出頭しても近藤とわからず処刑されないだろうと土方は考えていたのです。
近藤は、土方の提案を受け入れ、新政府軍に投降。
一方、土方は隙を見てその場を抜け出し、出払っていた隊士たちに会津に向かうように指示して自らは江戸城に向かいます。
土方は、旧幕府の代表として新政府との交渉にあたっていた勝海舟に、大久保大和の助命嘆願の手紙を書くように頼みます。
しかし、土方の思惑は打ち砕かれました。
運悪く、新政府軍の中に元新選組隊士がいて、近藤の身元が露見!!

4月25日、近藤勇、斬首刑に処される

その首は見せしめとして京都・三条河原に晒されました。

土方は少したってから近藤の死を知ることになります。
最期は武士らしく切腹したいと願った近藤を出頭させたことに、小路方は後悔の念を感じていたかもしれません

盟友・近藤勇を失い、悲しみに暮れた土方。
新選組と共に・・・
江戸を発った土方歳三らは、大鳥圭介率いる旧幕府軍と合流し、東北を目指します。
京都で新選組と後ろ盾だった松平容保の会津藩を中心に、東北の諸藩が新政府軍と対決する姿勢を表明していたからです。
その道中、土方らは新政府軍が占拠する宇都宮城をわずか1日で攻め落とします。
幸先は良かったのですが・・・その後は劣勢続き・・・会津、仙台へと移動します。
その間、新政府軍の猛攻の前に、当てにしていた東北諸藩がわずか数か月で次々と降伏していき、戦況は苦しくなるばかり・・・!!
一説に、土方はこの頃こんな事を口にしたといいます。

「到底、勝算の必ず期すべきあるにあらず」by土方歳三

それでも土方は新政府軍と戦い続けていくのです。
ひとつは近藤勇のため・・・
新政府軍が近藤を罪人扱いし、処刑したことが許せませんでした。
もうひとつは、近藤と共に築き上げた新選組を守りたかったからです。
新選組がどこまで新政府軍と戦い続けられるかも届けたかったのです。

東北での劣勢が続く中、新たな出会いもありました。
仙台で夷で合流した旧幕府軍・海軍副総裁・榎本武揚です。
旧幕府軍の主力戦隊など6隻を率いていた榎本は、旧幕臣たちと共に蝦夷を開拓し、新たな独立国家を作ろうと考えていました。
松平容保の会津藩も降伏し、東北での後ろ盾を失った土方は、新天地を求め、20人余りに激減した新選組隊士を引き連れて榎本と共に蝦夷へと渡るのです。
箱館に築かれた五稜郭に拠点を置き、2か月後、榎本武揚を総裁とする箱館政府を樹立。
しかし、1869年4月、新政府軍が蝦夷に上陸。
乙部に上陸した新政府軍は、函館に向け徐々に進軍し、5月11日、奇襲攻撃をかけ、ついに箱館の町を制圧します。
すると、土方と別行動をとって弁天台場にいた新選組が新政府軍に囲まれて孤立。
土方は僅かな兵を率いて救出に向かいますが・・・そのさ中、悲劇が!!
五稜郭と弁天台場の間・一本木関門で両軍が激突!!
新政府軍の一人が放った銃弾が、土方の腹部を貫通したのです。
最期まで戦い抜いた男の突然の幕切れでした。
奇しくも盟友・近藤勇と同じ35歳でした。

その1週間後、箱館政府が降伏し、戊辰戦争は集結しました。
6年に及んだ新選組の歴史にも終止符が打たれたのです。
その後、新選組の生き残りの兵士によって、箱館の写真館で撮られたという洋装の写真が兄弟のもとに届けられました。
決して降伏することなく、どこまでの戦い続けた男がいた・・・その証として。

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江戸時代、幕末動乱の京都・・・町では無差別に人が斬られ、放火や恫喝が横行・・・
そんな京の町の治安を守ろうと結成されたのが、局長・近藤勇が率いた幕末最強の剣客集団とも称される新選組です。
そんな新選組が一躍有名となったのが・・・1864年6月5日、池田屋事件です。
発端は、江戸幕府と対立する長州藩などの尊王攘夷派の志士たちが京都の町を大混乱に陥れ、とんでもない計画を企んでいることが発覚したことでした。
京都の町を震撼させた池田屋事件!!その一日とは・・・??

当時江戸幕府は、欧米列強の開国要求に屈したことで、諸藩からの信頼を失い、急速に弱体化・・・
そこで、朝廷に近づき、共に政治を行うことでなんとか幕藩体制の再強化を図ろうとしていました(公武合体)。
14歳将軍・徳川家茂と、孝明天皇の妹・和宮の婚礼を推し進めたのもその為でした。
この公武合体に激しく反発したのが長州藩を中心とした尊王攘夷派でした。
すぐさま外国勢を打ち払い、時の天皇・孝明天皇を中心に政治を行うべきだと主張します。
そうした尊王攘夷派の一部の志士たちは、天誅と称して対立する幕府側の要人や、その家族を襲撃するなど過激な行動に出ていました。
そこで、悪化の一途をたどる供与の治安を守るために結成されたのが、新選組でした。
京都守護職を務める会津藩主・松平容保の配下におかれ、新選組は市中の警備を任されます。

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池田屋事件当時、新選組の隊士は40名ほど・・・
局長・近藤勇、副長・土方歳三、そして沖田総司、斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁などがいました。
隊士のほとんどは農民や町民の出身でしたが、剣術道場で研鑚を積んでいました。
腕の立つ強者ぞろいだったのです。
斬捨御免の特権が与えられていたこともあり、尊皇の志士たちからは鬼神のごとく恐れられていたといいます。
対する尊王攘夷派の主なメンバーは、長州藩・桂小五郎・・・後の木戸孝允です。
長州藩から京都留守居役を命じられた桂は、京都にある長州藩の屋敷に滞在し、密かに尊王攘夷派の志士たちと連絡を取り諜報活動を行っていました。

そんな中、事態が動き始めます。
池田屋事件の4日前・・・6月1日。
この頃、新選組はある男の行方を血眼になって探していました。
桂小五郎と並ぶ尊王攘夷派の肥後藩・宮部鼎蔵です。
幕府や新選組は宮部を危険人物としてマークしていたのです。
宮部は、同じ尊皇思想である吉田松陰と親友でした。
処刑された吉田松陰の志を継ぐべく、京都での尊王攘夷運動に参加します。
さらに、宮部には長州藩と共に企んでいる噂が・・・

”御所に火を放ち、会津の容保公と中川宮の首を狙っている”

この時、長州藩は前の年に起こった政変によって朝廷から締め出され、京都の町からも追放されるという憂き目にあっていました。
その政変の首謀者だった会津藩・松平容保と宮家・中川宮二人の命を宮部が狙っているというのです。
当然そのたくらみを阻止したい新選組・・・しかし、なかなか宮部の行方がつかめません・・・。

この日も、手掛かりを求め、宮部がかつて定宿にしていた南禅寺塔頭の前で張り込んでいました。
すると、宮部の下で働く小間使いの忠蔵がやってきたのです。
忠蔵をすぐにとらえた新選組は宮部の行方を厳しく追及しますが、なかなか口を割りません。
そこで、作戦を変更し、忠蔵を利用することに・・・。
南禅寺の山門に忠蔵をくくりつけ晒し者にしたところ・・・仲間が救出に来ました。
新選組は気付かれないように忠蔵の後をつけたのです。
忠蔵の向かった先は、市場にある桝屋という店でした。
新選組はにわかに色めき立ちます。
何故なら、この桝屋、幕府側が尊王攘夷派と関係があるかもしれないと目をつけていたからです。

”表向きは、薪や炭などを扱う店だが、下働きの男2人を召し抱えている以外、家族もなく、町内の付き合いも致さず、不審である”

新選組局長・近藤勇は、すぐに桝屋を調べるように指示・・・
張り込みや聞き込みを続けました。
その結果、桝屋の主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の志士たちの深いつながりがわかってきたのです。
果たして桝屋主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の関係は・・・??
近江出身の古高は、儒学者で尊王攘夷派の指導者・梅田雲浜の弟子でした。
しかし・・・1859年、雲浜は安政の大獄で投獄中に病死していました。
古高は、その志を継ぎ、京都での尊王攘夷運動に参加します。
その後、縁あって、桝屋に養子に入り”桝屋喜右衛門”を名乗りました。
古高は、商人という隠れ蓑を利用し、諜報活動に没頭・・・
いつしか桝屋は、尊王攘夷派の活動拠点となっていきます。
実は桝屋、筑前藩御用達であったため、武士である尊王攘夷派の志士たちが出入りしても、目立たなかったので、重用されていました。
そして、新選組が行方を追っていた宮部鼎蔵も桝屋に仮住まいし、活動拠点にしていたのです。
さらに、古高は長州藩からある重要任務を任されていました。
それは、長州藩に朝廷の情報を提供する連絡役だったのです。
当時、朝廷内の重職は、幕府派で占められていましたが、有栖川宮は数少ない長州派でした。
有栖川宮は、幕府の介入によって孝明天皇の妹・和宮との婚約を破棄されていました。
和宮は、結局14代将軍・家茂に嫁いでいます。
長州藩は、有栖川宮熾仁親王を足掛かりに、朝廷での復権を目論んでいました。
しかし、古高と有栖川宮とのつながりは・・・??
古高は、父親の代から山科にある毘沙門堂の門跡に仕えていました。
その門跡が、有栖川宮の叔父であったため、古高は有栖川宮との交流があったのです。
長州藩にとって、古高はまさに好都合な人物だったのです。
古高俊太郎は、長州藩と朝廷を繋ぐ重要な連絡係であり、尊王攘夷派の志士たちの強力な支援者だったのです。

近藤勇は、桝屋の摘発を命じます。
1864年6月5日、池田屋事件当日早朝・・・
緊張の面持ちで、四条にある桝屋へと向かう新選組の隊士たち・・・
この時、尊王攘夷派の志士たちが潜伏しているというとの情報を得ていました。
ところが、いざ桝屋へ乗り込んでみると、中にいたのは主人の古高俊太郎ただ一人・・・!!
実は、京都に残ることを許された長州藩士たちが、忠蔵が捕まったと聞き危険を感じて、宮部鼎蔵ら尊皇攘夷派の志士たちを藩の屋敷に匿っていたのです。
してやられた新選組の面々・・・
しかし、このまま手ぶらで帰るわけにはいきません。

「徹底的に調べ上げろ!!」

すると、奥にあった蔵の中から、刀や鉄砲など大量の武器と甲冑が出てきたのです。
それは、古高が来るべき時に備え、買いそろえていたものでした。
さらに、志士たちが書いた命を懸けて戦うとの血盟書や長州藩との書簡も出てきました。
そこには・・・
”御所に火を放ち、会津藩主・松平容保、宮家の中川宮を襲撃する”
と・・・襲撃をほのめかす内容が書かれていたのです。

尊王攘夷派が企む過激な計画の確かな証拠をつかんだ新選組は、古高を連行し、意気揚々と壬生の屯所に引き上げていきました。
そしてこの日の夜、池田屋事件が起きるのです。

6月5日、池田屋事件当日・午前・・・
古高を三部の屯所に連れ帰った新選組は、さらに厳しい尋問を行いました。
担当したのは、鬼の副長・土方歳三でした。
土方は、古高を逆さづりにし、拷問にかけます。
五寸釘を古高の足の甲に打ち込み、貫通させた上でそのくぎにロウソクを立てました。
火を点け、暫くすると熱いロウが古高の傷口に滴り落ちていきます。
たまらず、大きなうめき声をあげる古高・・・
それでも、もだえ苦しみながら耐え忍んでいましたが、30分ほどで観念・・・
一説には古高はこう白状したといいます。

「6月22日ごろ、風が強ければ御所を焼き打ちし、帝を奪い去り、山口城へと連れ去る謀反を企んでいる
 その為、大勢の長州人が京都に潜伏している」

松平容保や中川宮を襲撃するどころか、孝明天皇を長州藩の山口へと連れ去ろうとしているというのです。
天皇が連れ去られるなど、前代未聞・・・!!
これは一大事です。
当然、市中の取り締まりを任せられていた新選組の面目も丸つぶれに・・・
なんとかしなければ・・・!!

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古高俊太郎の自白によると、御所襲撃計画の実行は6月22日ごろ・・・
この時は6月5日でしたが、近藤勇は焦っていました。

「我々が古高を捕らえたことで、やつらは慌てて事を起こすかもしれん!!
 ・・・!!
 今日は宵々山か・・・!!」by近藤勇

この日は、祇園祭の直前に行われる祭り・宵々山の日でした。
毎年、町には大勢の見物客が訪れます。
近藤はその混乱に乗じ、尊王攘夷派の志士たちが仕掛けてくると、考えたのです。
すぐに、京都守護職で新選組を統括する会津藩主・松平容保に事態を報告!!
そして、潜伏する志士たちを摘発する為に支援を要請しました。
これに対し、会津藩は・・・

”一橋様 桑名様 町奉行と相談の上 人を差し出そう
 夜五つ時 祇園会所前で待つよう”

この時、京都の警備にあたっていたのは容保の会津藩の外、禁裏御守衛総督・一橋慶喜、容保の弟で京都所司代の松平定敬の桑名藩、そして京都町奉行所などでした。
会津藩は、それぞれに根回しして援軍を送るので、夜5つ時・・・9時ごろに八坂神社近くにある祇園会所前で合流しようというのです。

その頃、尊王攘夷派の志士たちは・・・
古高が捕縛されたと聞き、長州藩の屋敷に次々と集まってきていました。
重要な協力社を奪われ、今後どうするのかを激論を交わします。
一説に、その席には尊王攘夷派のリーダー・宮部鼎蔵や、長州藩主の吉田稔麿などもいたといいます。
吉田は、松下村塾出身で、高杉晋作、久坂玄瑞と共に”三秀”に数えられ、将来を嘱望された若者でした。
そして、宮部と吉田の二人は、この夜起こる池田屋事件に巻き込まれることになるのです。

池田屋事件当日昼過ぎ・・・
新選組は、夜の摘発に向けて早くも動き出しました。
局長・近藤勇は、病に伏していた一部の者を屯所に残して34人で出動することにします。
潜伏する尊王の志士たちに気付かれないよう、数人に別れ分散して出動させました。
さらには、武器や甲冑などをまとめて大八車に乗せ隠しながら運びました。
慎重に事を進めたのです。

池田屋事件当日8時ごろ・・・
準備を整えた新選組は、まだ会津藩との約束前でしたが、それを待たずに動き出します。
近藤は、隊を自分が率いる組(10人)と、土方歳三が率いる(24人)二つに分けます。
土方率いる24人に祇園界隈の捜索をはじめませます。
この時近藤は、潜伏先を祇園と三条周辺にある茶屋や旅籠など二十数カ所に絞っていました。
茶屋は、会員制で不審なものが入ってくることはなく、芸妓の口が固かったので、情報が漏れにくかったのです。
旅籠は、様々な場所からいろいろな身分の人が宿泊したので、志士たちは紛れ込みやすかったのです。

そして会津藩との約束の9時・・・
約束の時間になっても、援軍はやってきませんでした。
どうして幕府の援軍は来なかったのでしょうか??

援軍は、来るには来たのですが、かなり遅れてやってきました。
遅刻した理由は、色々説がありますが・・・
①会津藩が根回しに時間がかかってしまった
②新選組とは違う作戦で摘発するつもりだった
夜9時ごろの集合時間はあくまで目安で、会津藩は指示を出すまで配下の新選組は動かないと思っていたのです。
援軍が期待できない中、近藤率いる10人も動き始めました。
しかし、尊王攘夷派の志士たちの潜伏先はいまだ不明・・・目星をつけていた個所を探していくほかありません。
祇園周辺と三条周辺の二手に分かれて捜索する新選組・・・
先に土方歳三率いる24人が祇園周辺を調べていましたが、なかなか見つかりません。
一方、近藤が率いる10人は、四条通から木屋町通りを北上し三条へと向かいます。
この辺りには多くの旅籠は軒を連ねていたからです。

池田屋事件当日夜10時ごろ・・・
そんな中、新選組は三条にある旅籠・池田屋で長州藩と尊王の志士たちが密会をしていることを突き止めます。
尊王攘夷派の志士たちはどうして池田屋にいたのでしょうか?
当時、長州藩京都留守居役だった桂小五郎は、この時のことを後にこう書き残しています。

”かつて古高と同盟していた者を三人選んで古高救出に加わることを許し、他の者が門を出ることを禁じた
 私もこの夜、池田やで会合する約束をしていた“

古高が長州藩と朝廷の一部との窓口になっていたので、新選組に捕縛された古高俊太郎をいかにして奪還するか相談するための会合でした。
”すぐに奪還すべき”という過激派と、”慎重に状況を見極めるべき”という慎重派に分かれていました。
一説に、宮部鼎蔵や吉田稔麿は、過激派を思いとどまらせようと池田屋にやってきたともいわれています。

近藤勇は、近隣の者から池田屋の間取りを聞き出します。
建物には、三条通側にある表口の外に、裏手にも出入り口があることが分かり、近藤はそれぞれに3人の隊士を配置、そして、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人で中へ踏み込みます。

夜10時30分頃・・・
近藤は、怯むことなく踏み込んでいきました。
すると、奥から旅籠の主人が出てきました。

「今宵、御用改めである」by近藤勇

驚いた主人は、急いでおくに・・・2階に向かって

「御用改めでございます!!
 御用改めでございます!!」by池田屋主人

そう叫びます。
池田屋は、元々長州藩の定宿で、何かと尊王攘夷派の志士たちに融通をきかせていました。
近藤は、主人を殴り飛ばし、奥の階段から沖田と共に二階へ上がります。
するとそこでは・・・十数人の志士たちが、密会していたのです。

「手向かい致せば容赦なく切り捨てる!!」by近藤勇

志士の一人が斬りかかってきました。
沖田はそれをかわし、すかさず切り捨てたのです。
すると、尊王攘夷派の志士たちの大半が、吹き抜けになっていた中庭や裏庭に飛び降りたため、近藤は急いで1階に向かいます。
その直前、沖田総司が突然倒れてしまうのです。
今までは、持病の結核で喀血し倒れたと言われていましたが、喀血なら医学的にそれ以後4年も生きられないのではないのか??と言われています。
最近の説では、暑さにやられて熱中症だったのではないか?と言われています。
いずれにしても、剣の達人の沖田の離脱は、新選組にとっては大きな痛手でした。
近藤、永倉、藤堂のわずか3人で戦うこととなった新選組・・・
そこで近藤は、永倉には表口付近の台所で、藤堂には中庭付近で戦うように指示・・・自分は奥の間で敵を迎え討ちました。
すると・・・まず、永倉が表口に逃げようとする敵を続けざまに後ろから仕留めました。
一方、中庭付近にいた藤堂は、敵に額を切られてしまいます。永倉が助太刀し、命だけは助かりましたが、出血が激しく、藤堂も離脱・・・残るは、近藤と永倉の二人だけ!!
絶体絶命のピンチ!!
しかも、近藤は大勢を相手に苦戦!!
その時のことを、永倉は晩年、こう振り返っています。

「近藤は、2、3度斬られそうになっていた」

その窮地を救ったのが、新選組最強の一人に数えられていた永倉その人だったのです。
永倉の余りの強さにおののき、一部の尊王攘夷派の志士が降伏・・・
丁度その頃・・・一報を聞いた土方歳三率いる一団が、ようやく祇園から駆けつけました。
一気に形勢は逆転、土方や、島田魁などの活躍により、新選組は池田屋にいた尊王の志士たちを見事鎮圧したのです。
踏み込んでから、1時間半ほどが経っていました。

6月6日、深夜0時半ごろ・・・
会津藩や、桑名藩など幕府の援軍が到着しました。
新選組は、援軍と共に潜伏する残党をも一網打尽にしたのです。
近藤勇によると、池田屋とその周辺を含め、新選組は7人を斬殺、4人を手負いにし、23人を召し捕ったといいます。

しかし、この時亡くなった長州藩や尊王攘夷派の志士たちの身元についての詳しい記録は残っていません。
一説に、尊王の志士たちのリーダー格だった宮部鼎蔵は池田屋で自刃、長州藩士の吉田稔麿は、援軍を呼ぼうと長州藩邸に戻る途中に討ち取られたと言われています。

幕末最強の剣客集団・新選組が、京都三条にあった旅籠・池田屋で密会する尊王攘夷派を襲撃した池田屋事件・・・
この池田屋での会合に、長州藩京都留守居役の桂小五郎も出席する約束を交わしていましたが、難を逃れています。
後年、桂はこう記しています。

「約束の刻限に池田屋に行ったが、まだ誰も来ておらず、一度池田屋を後にし、対馬藩の屋敷で待たせてもらっていた
 その後、新選組が池田屋を襲撃した」

なんと、桂は、新選組とニアミスしていました。
そして、すんでのところで難を逃れていたのです。

一方、事前に尊王の志士たちの過激な計画を阻止し、京都を混乱から守った新選組は、幕府から総額600両、の報奨金が与えられ、新選組の名を天下に知らしめたのです。
しかし、この時、多くの同志を殺された長州藩から大きな恨みを買ったことで、やがて新選組の運命は一転・・・
時代の波に飲み込まれていくことになります。

池田屋事件から3年・・・長州藩が、薩摩藩と手を組み倒幕を叫ぶと、15代将軍・徳川慶喜は、あっさりと政権を返上。
しかし、江戸幕府が終わりを告げても、なお、徳川に忠義を尽くし続けた新選組は、逆賊となってしまうのです。
局長・近藤勇や、土方歳三は、旧幕府軍と共に最後まで抵抗を続け、無念の死を遂げていきます。
池田屋事件での新選組の活躍は、長州藩をはじめとする尊王攘夷派に、大きな打撃を与え、明治維新が1年遅れたともいわれています。
しかし、時代の波には逆らうことが出来なかったのです。
そう思うと、池田屋事件は、幕末最強の剣客集団と畏れられた新選組のハイライト・・・最後の花道だったのかもしれません。

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新選組・池田屋事件顛末記

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幕末の英雄・勝海舟は、この男をこう評しました。

”一奇士なり”と。

奇士とは、並外れた男子を意味する言葉です。
その男の名は、土方歳三!!
新選組副長です。
死後、150年以上たった今なお、土方の生きざまは人々を魅了してやまない!!
幕末動乱の時代、盟友・近藤勇と共に、新選組を結成!!
天下にその名をとどろかせました。
その行状、残忍・酷烈!!
鉄の掟で強力な組織を作り上げた土方を、人々はこう畏れました。
”鬼の副長”と!!
しかし、近藤の死後、土方の印象は真逆に転じます。

鬼か、仏か??

そして・・・1年半に渡る戊辰戦争で、新政府軍に負けた旧幕府軍・・・そんな中、旧幕府軍の一大転機となった戦いがありました。
宇都宮城の戦いです。
この時土方は新政府軍の宇都宮城をわずか6時間で攻め落としました。
土方の挑んだ難攻不落の巨大城郭!!
この後、北を目指した土方の心中とは・・・!!

暗殺、人斬り・・・テロの嵐が吹き荒れた幕末の京都・・・
こうした尊皇攘夷の過激派に対抗して刀で制したのが新選組でした。
局長・近藤勇、そして近藤を支えた副長・土方歳三・・・
注目すべきは、土方が作り上げた新選組の組織編制です。
副長は、局長を補佐するとともに、実務を請け負う実質的トップとなります。
副長の補佐役として隊士たちを統括するのが副長助勤です。
夭折の天才剣士・沖田総司、新選組最強といわれる永倉新八、そして孤高の剣士・斎藤一など、一騎当千の剣士たちが名を連ね、副長助勤として土方を支えていました。
近藤勇は直接、副長助勤に命令しない・・・副長である自分がキーになる組織でした。
即断即決を可能にする新選組の組織編制こそ、土方の考えを反映していました。

将軍家御典医の松本良純が、新選組屯所をたずね、あまりの不衛生さに改善策をアドバイスしました。
その数時間後・・・なんと土方が松本の指示通りに病室はおろか、浴場も見事に整備していたのです。
余りの手際の良さに松も余が驚くと・・・

「兵は拙速を貴ぶとはこのことなるべし」

土方はそう言って笑ったといいます。

また、新選組の戦闘方法にも土方独自の発想がありました。
1867年11月18日に起きた油小路事件・・・
かつての同志・伊東甲子太郎を暗殺した土方たちは、遺体を油小路に遺棄・・・
駆けつけてくる伊東の仲間を一網打尽にする囮として利用しました。
この時駆けつけたのは7人・・・
それに対し、新選組は3、40人で迎え討ったといいます。

こうした戦い方を、武士として卑怯なのではないか??
という見方もあります。
しかし、新選組は当時、京都の治安を守るべき存在でした。
徳川幕府を支えなければいけない存在だったのです。
それは、当然の任務の遂行でした。
どんな手段を使おうが、必ず勝つ!!
それこそが、土方の戦闘哲学でした。

ところが・・・1867年12月9日・・・王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府は消滅・・・土方たち新選組の屋台骨が崩れました。
その僅か1か月後・・・旧幕府軍と新政府軍による戦いが・・・
1868年1月3日、鳥羽伏見の戦いが幕を開けました。
新選組を率いて戦いに臨んだ土方は、

「砲戦では勝負がつかん、斬り込め!!」

と、隊士たちを指揮したといいます。
しかし・・・近代兵器に勝る新政府軍の前に、剣に生きる新選組はなすすべなく敗れ去ったのです。
戦えば必ず勝つ!!
これまでの土方の戦闘方法は、鳥羽伏見の大敗によって大きく変わりました。
事実、土方はこう語ったと言われています。

「もはや武器は大砲でなくてはならない
 僕は剣を取り、槍で戦った
 全く無益なことであった」と。

江戸に帰還した土方は、この頃彼は洋装に転じたと言われています。
剣から銃へ・・・鳥羽伏見の敗戦を契機に、土方は新たな戦闘へと大きく踏み出していくのです。

鳥羽伏見の敗戦から2か月後・・・3月6日、甲州勝沼の戦い・・・
江戸に帰った旧幕府軍はここでも新政府軍と戦い新選組は手痛い敗北を喫しました。
連戦連敗の新選組・・・以降、隊士たちは、それぞれの道を歩むこととなります。

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4月25日・・・新選組局長・近藤勇、新政府軍に捕らえられ板橋で斬首・・・享年35。
この頃、土方にも大きな変化がありました。
洋装に身を包んだ土方は、独自の行動に出ました。
近藤の死の14日前・・・4月11日、土方は僅か6人の隊士を連れ旧幕府軍に合流します。
その主力は、勝海舟が決断した江戸無血開城に反対する勢力です。
およそ2500の兵を統率する元歩兵奉行・大鳥圭介!!
大鳥率いる旧幕府軍の中には、伝習隊の姿もありました。
当時珍しい、フランス仕込みの洋式軍隊です。
洋式軍隊の難しさは、当時の階級制度にあります。
戊辰戦争期は、各藩兵力動員を大規模にして銃を持たせていました。
指揮官になる者は、洋学を勉強したものでないとなれませんでした。
江戸時代、洋学を勉強した人たちは下級武士でした。
ところが、身分が上の侍たちは、動員されるが指揮能力がない・・・
近代戦の指揮命令系統と武士階級の格式が逆転してしまいます。
なので、近代戦法に結びつきませんでした。
近代戦法は、身分に関係なく、指揮官のもと兵を自在に動かす指揮命令系統の確立にある!!
それは、土方が組織した新選組にも通じています。
新選組は剣士の集団ではありましたが、近代化する側面を持っていたのかもしれません。

旧幕府軍に合流した土方は、この時全軍の参謀に任じられます。
その理由は・・・
”土方歳三は、元新選組副長であり、機智勇略を兼ね備えた人物である”
新選組の名は、全国に轟き、旧幕府軍にとって守護神ともいえる存在でした。
旧幕府軍は二手に別れ、日光を目指します。
日光にある東照宮は、江戸幕府の開祖・徳川家康を祀る聖地・・・
大鳥たちは、日光で新政府軍に対峙し、東国諸藩を糾合しようと考えていました。
そして・・・日光に至るには、宇都宮城を通過しなければならない・・・
関東屈指の名城・宇都宮城・・・江戸幕府にとって、東国の外様大名に対する北の守りの一大拠点です。
宇都宮城は、近世城郭では珍しく、石垣ではなく土塁に囲まれた城でした。
宇都宮城は、北向きに作られたというのが特徴で、北を防御するようになっていました。
それが、皮肉なことに、戊辰戦争では南東の方向から攻められることになります。
この城をめぐる攻防戦こそ、鳥羽伏見の戦い以降、旧幕府軍初めての勝利となります。
しかも、土方のその後の運命を大きく帰る戦いでもありました。

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4月18日、土方率いるおよそ1000人の隊は、大鳥軍に先立ち宇都宮城の近くに迫りました。
その時、宇都宮城が新政府軍の支配下にあることを知ります。
宇都宮城を制していたのは香川敬三・・・この香川こそ、近藤勇を捕らえた人物です。
当時描かれた宇都宮城の絵図が残されています。
宇都宮城は、南北900m、東西850mに及ぶ巨大城郭でした。
香川率いる城兵は、僅か400。
しかし、籠城に徹すれば、その鉄壁の守りは固く、攻め手にとって厳しくなるはずでした。

4月19日、土方ら宇都宮城に進軍。
ところが、新政府軍が奇妙な行動に出ます。
宇都宮城の外へ出撃したのです。
どうして籠城策を取らなかったのか・・・??
後の元帥・陸軍大将・山県有朋は、当時をこう振り返っています。

「各藩にはそれぞれの指揮役がいて、こうした指揮役を統一し、命令し、兵を動かすことなど新政府をもってしてもできなかった」

実は、新政府軍は、各藩の寄せ集めの軍隊で、指揮命令系統が混乱していました。

土方たちは、それを見逃しませんでした。
新選組隊士の日記にこうあります。

「はじめ敵は防御していたが、鉄砲を散々に打ちかけると次第に崩れ、やがて城の中へ逃げ込んだ」

この時、土方たちは、軍を分けました。
精鋭部隊の伝習隊は北の大手門へ・・・土方率いる新選組や桑名藩兵は東南方向へ向かいました。
土方の狙いとは何か・・・??
宇都宮城は、北に向かい防御施設を固めた城です。
そこで近代兵器による攻撃を仕掛け、北側に敵兵力を集中させ、その隙をつき土方隊が城内に白兵戦を仕掛ける・・・
川を防衛ラインとした東南側は、土塁も低く、ウィークポイントでした。
この時土方は、激しい戦場から逃げようとした味方の兵を容赦なく切り捨てたといいます。
戦に臨む土方は、鬼とかしました。
さらに、土方たちの猛攻は続きます。
旧幕府軍が誇る最新式の大砲が威力を発揮!!
砲弾は城内の建物を粉砕!!
敵にとどめを刺したのです。
結果、敵は狼狽して城を捨て、逃げ去った・・・
関東屈指の名城・宇都宮城・・・陥落!!
わずか6時間ほどの戦いだったといいます。
土方にとって、洋装に徹して実力を初めて示すことが出来たのが、宇都宮城の戦いでした。

この戦い以降、土方の名声はさらに高まります。

”土方は、奥羽の各所で勇ましく戦い、衆目を驚かせた
 とりわけ宇都宮城の攻撃は、新政府軍を心底恐れさせた”

戦術家としてその名を天下にとどろかせた土方歳三・・・
更なる戦いを求め、北へ向かったのです。

宇都宮城の戦いの後、土方歳三は北へ向かいました。
戦いの火の手は、東北地方に拡大・・・その震源地となったのが、会津藩と庄内藩です。
東北諸藩は、朝敵となった会津・庄内の斜面を求め、奥羽越列藩同盟を結成・・・
その盟主となったのが、東北の大藩・米沢と仙台です。
この同盟に合流したのが、旧幕府海軍を率いた榎本武揚です。
榎本は、当時、最強と呼ばれた最新鋭の軍艦・開陽など、8隻の艦隊で江戸を脱走。
土方も榎本にあわせるように仙台に向かいました。

1868年9月3日、合流した土方と榎本は、仙台城で開かれた同盟の軍議に参加しました。
軍議の席上、榎本はこう発言したといいます。

「そもそも奥羽の軍勢が弱いのは、誰もが主となり戦をするものがいない故である
 今これを挽回するためには、全軍を指揮する惣督を選ぶべきである
 惣督に相応しいの人は、私が同行した土方歳三をおいては他にいないと思う」

奥羽列列藩同盟の惣督に、土方を推挙したのです。
これを受け土方は言います。

「全軍も惣督として、指揮するためには、軍令を厳しくせねばならぬ
 もしこれを破るようなものがあるときは、大藩の家老と言えどもこの歳三が切り捨てねばならん
 去れば生殺与奪の権利をくださるのなら、全軍の惣督を引き受けますが、その辺りはいかがでしょうか」
 
つまり、土方は、全ての者の命を自分に預けるように要求したのです。
土方のこの言葉に、軍議は紛糾!!
この時、土方は何を思っていたのでしょうか?

奥羽にとどまり戦を続けるために、東北諸藩が一丸とならねばならない
この地で、命がけで戦えば、戦は長引く・・・
されば勝機はある!!
会津は籠城したがために今や劣勢にあれば、庄内は連戦連勝を続けているではないか!!

既に北越戦争で長岡藩は降伏・・・会津藩は、籠城戦を余儀なくされていました。
しかし、最新鋭の武器を配備した庄内藩は、藩外での戦いを続け、連戦連勝の気炎をあげていたのです。

奥羽の足並みがそろわなければ、さすがの庄内も孤立し、いずれは破れる・・・
ならば、旧幕府海軍と共に新天地に向かう??
新たな体制のもと、新政府軍に対抗するという手もあるが・・・

この頃、旧幕府海軍率いる榎本は、先々の計画を立てていたと考えられます。
蝦夷地に渡り新政府軍に対抗しようというものです。
我が方には、最新鋭の軍艦、開陽がある!!
最強の海軍と陸軍が手を結べば、新政府など恐るるに足らず
我らは必ず勝てる!!

奥羽にとどまり戦いを続けるべきか、それとも榎本と共に新天地へと向かうべきか・・・
土方に選択の時が近づいていました。

奥羽越列藩同盟は米沢藩を皮切りに、次々と新政府軍に降伏・・・同盟は瓦解しました。
そして、会津鶴ヶ城も落城・・・!!
土方が、全軍の惣督として指揮を振るうことはありませんでした。

明治と改元した・・・1868年11月5日、土方歳三の姿は、蝦夷地・松前にありました。
土方は、榎本と共に新天地、蝦夷地を目指したのです。
しかし、蝦夷地を治める松前は、新政府にすでに恭順・・・
土方たちの行動を、許すわけはありませんでした。
ここに、松前城をめぐる攻防が始まりました。
土方にとって、宇都宮城以来の城攻めです。

”土方惣督は、陸軍隊・新選組を率いて城の裏へと回り込み、梯子で城壁を登り、城内に突入!!
 敵は気付かず我が軍は、敵に一斉射撃!!
 敵、これ大いに驚き、防御もできず場外へ走り去り、支柱に放火しながら逃走した”

戦略家、土方の面目躍如・・・
土方は1日もかからず城を攻め落とすことに成功しました。
ところが・・・この時、陸軍の援軍として着ていた海軍の開陽が、岩礁に乗り上げ沈没してしまったのです。
土方たち箱館政権の五稜郭は、日本でめずらしい西洋式の城郭・・・
しかし、函館湾から近く、制海権を失えば敵の艦砲射撃の的となります。
以後、土方は五稜郭に寄らず、もっぱら場外での戦闘に従事しました。

この頃、土方の印象は、鬼の副長と呼ばれた京都時代から大きく様変わりしていました。
新選組隊士の日記にこうあります。

”土方は、常に下々に気を遣い、戦の時には先陣をきって進むので、従う兵たちも雄を振るって進軍する
 故に、戦いに敗れることはなかった”

そして、1869年5月11日、海陸を新政府に包囲され太激戦のさ中・・・土方は銃弾を受け戦死。。。
享年35・・・戦場にいた新選組隊士たちに衝撃が走りました。
この時、砲台の守備に就いていた新選組の者たちは、土方の死んだことを聞き、まるで赤子が慈母を失うがごとく、皆悲嘆してやまなかった・・・ああ・・・惜しむべき将なり・・・と。

土方歳三のふるさと東京日野市・・・土方の死から19年後、地元の人々や松本良純の手により、顕彰碑の建立の話が持ち上がりました。

”殉節両雄之碑”と名付けられた石碑は、近藤と土方の偉業を讃えたものです。
はじめ、文字を依頼されたのは、将軍・徳川慶喜でした。
しかし、慶喜はただ涙を流すばかりで返答しませんでした。
結局、その文字は、かつて新選組を庇護した元会津藩主・松平容保の手によるものです。
京での新選組の華々しい戦いが語り継がれる中で、その後の新選組の物語は、史実に埋もれて行ったのです。


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新選組局長・近藤勇。
幕末の京・・・藩幕府勢力に立ち向かった最強の剣客集団・新選組。
局長・近藤勇の掲げるな誠の旗のもと、命をかける若者!!
その実態は、様々な人間の集団でした。
農民、商人、武士でもなれた隊士・・・年齢、出身、思想もバラバラでした。
近藤は、そんな隊士たちを最強組織にするために、改革を行います。
大砲や銃の最新兵器、先頭を最大限高めるために厳しい掟、西洋医学を取り入れた医療改革、
しかし、近藤には、厳しく冷酷な一面もありました。
近藤の掲げる若い理想についていけない若者たちは粛清されていきます。
やがて時代の激流に飲まれ、新選組は内部分裂!!
親しい仲間も去っていきます。
それでも、近藤は自分の信念を貫き通します。
どうして・・・??

義を取り 生を捨つるは 吾が尊ぶ所 
只まさに一死をもって 君恩に報いん

1864年6月5日、幕末の日本を揺るがす大事件が起こります。
京の町の警備をしていた新選組が死闘を演じた池田屋事件です。
新選組は長州藩の過激な面々が放火計画を立てていると情報を掴み、池田屋に急行!!
この時、突入できるものは僅か4人・・・
新選組局長・近藤勇、沖田総司、藤堂平助、永倉新八でした。
この池田屋には、多くの敵が潜んでいるかもしれない・・・
しかし、たった4人で突入!!どうして??

当時、京では過激な志士たちが天誅として要人を暗殺するなど治安が乱れていました。
今日の治安を預かる会津藩は、近藤ら新選組を配下に置いて、市中見回りをさせていました。
しかし、新選組に対し、人々の目は冷ややかでした。
それは、新選組は臨時雇いの新参者だったからです。
身なりも貧しく粗暴な姿は、壬生浪と呼ばれ、蔑まれていました。
そして会津藩藩士の中にもバカにするものもいました。
しかし、近藤は幕府や日本のために、新選組が重要な役目を果たせるという自負を持っていました。

「我々は市中見回りのために募集されたのではない」

自分達を認めさせるには、大きな功績をあげるほかはない・・・
屈辱に耐えながら、近藤はチャンスを狙っていました。
そんな近藤たちのもとへ思わぬ情報が・・・。
それは、長州藩の浪士たちが御所に火を放ち、混乱に乗じて天皇を拉致しようとしているというものでした。
しかも、2日後には祇園祭で多くの人が集まる・・・
計画が実行されれば、被害は計り知れない・・・!!
近藤は、会津藩に報告し、応援を要請!!
午後7時、近藤たちは応援を待たずに出発!!
浪士が潜んでいる可能性がある場所は・・・鴨川を挟んで東と西にありました。
そこで、新選組を二つに分けて、自分たちは西側、副長・土方歳三には東側を捜索させます。
午後10時・・・近藤は、浪士が集まっているという池田屋に到着・・・
しかし、この時、まだ会津の応援部隊は到着していませんでした。

相手は大人数・・・突入すれば4人全滅するかもしれない・・・
しかし、応援を待っていれば手柄は無くなるかも・・・。
千載一遇のチャンス??身の安全を優先??
近藤の決断は、
「御用改めである!!」
20人以上の浪士が待ち受ける中、近藤はたった4人で斬り込みました。
剣の腕では勝っても、数に劣る近藤たちは次第に追いつめられていきます。
そして・・・病をおしての沖田が血を吐きます。
藤堂も額に一撃を受けて流血!!
二人が戦闘不能に・・・
近藤、もはやこれまでか・・・??
その時、近藤を救ったのは、副長・土方歳三の刃でした。
土方たちの応援で形勢は逆転、新選組は長州などの7人を討ち取り、23人を捕縛しました。
会津藩が池田屋に到着したのは、終わった後だったといいます。
近藤たち新選組の活躍は、朝廷にも認められ感謝状が贈られます。
新選組の名を天下に知らしめた近藤勇、この時29歳でした。

1834年、多摩の農家の三男に生まれた近藤勇。
28歳の若さで京の都で新選組局長となります。
どうして、農民の子が新選組の局長になれたのでしょうか?

わんぱくだった近藤はガキ大将でした。
しかし、年下の子は虐めることはなく・・・
近藤が生まれた武州・多摩郡は江戸の西側で守るため幕府の直轄地・天領が多くありました。
甲州街道が東西に走り、人々や物資、情報が行き交い、裕福な農民が多い土地でもありました。
しかし、裕福なことが災いし、強盗が多発!!
そのため、刀を持たない農民でも剣術を習うものがたくさんいました。
1848年14歳の時に、近藤も天然理心流・試衛館に入門します。
めきめきと頭角を現します。
そんな近藤の人生を変える運命が・・・強盗が家の中に・・・!!
すぐさま刀をとって斬りかかろうとする兄に近藤は、
「強盗は今は気が立っているが帰り際には心に隙ができる
 その時を待ちましょう」
そして強盗が引き上げようとした瞬間・・・強盗は突然の大声に驚き、盗んだものを投げ捨てて一目散に逃げだしました。
すぐに追いかけようとする兄を引き留める近藤。
「窮鼠猫を噛むといいますから、追うのはやめましょう」
勇は終始冷静で、無傷で強盗を追い出したといいます。
近藤の豪胆さは瞬く間に評判となり、道場主は養子に迎え、後に道場を継ぐことになります。
こうして近藤は農民から一道場主へとなります。

1860年25歳・・・近藤はツネと結婚。
良妻賢母な女性で、道場に来る若いものもよく見たといいます。
そして道場には、後の新選組を担う若者が・・・
土方歳三、永倉新八、沖田総司・・・彼らは近藤に惹かれ、住み込みで練習します。
道場に入門する人間は、農民、脱藩浪士様々で、稽古の後には近藤を中心に議論に熱中します。

幕末、ペリーが黒船で来航し、開国を迫ります。
この事件は国論を二分します。
開国か??攘夷か・・・??
近藤の理想は、幕府が朝廷と協力して攘夷を行うことでした。

”草莽の野人 国事に周旋”

農民の近藤は、名もなき人であるけれども、国のために一生懸命頑張りたいという思いを持っていました。

1863年28歳・・・チャンスが訪れます。
幕府が腕のたつ浪士を募集します。
任務は、京へ向かう14代将軍徳川家茂の警護でした。
将軍が天皇から攘夷の命令を直に受けるためでした。
朝廷では、外国を打ち払わない幕府に対して不満がたかまっていました。
さらに、過激な長州の浪士たちが暗殺や放火を行い、暴力で政治を動かそうとしていたのです。
将軍のために京へ行く・・・将軍を守るという責任のある任務・・・
身分、出身、家柄を問わないという。。。
近藤たちにとってまたとない機会でした。

”天皇と将軍を守り 奸賊を斬る
 朝廷と幕府、その両方のために自分は戦うのだ”

近藤は、妻や道場を仲間に任せ浪士組に参加し、土方らと共に京に向かいます。
多摩の人たちの期待を背負って・・・!!
しかし、到着した夜、思わぬ事態が待っていました。浪士隊の取りまとめ役が近藤たちを集めて言いました。

「浪士組は幕府に従う義理はない
 天皇のために働き、逆らうものには容赦はしない」

幕府ではなく、朝廷の為だけに働くと言い出したのです。
寝耳に水の発言でした。
近藤は選択を迫られます。
浪士組に留まるのか??信念を貫くのか・・・??

”天皇の為だけではない、我々は将軍のために働きに来たのだ”

234人の浪士組から、近藤たちは脱退し、壬生浪士組を結成しました。
24人でしたが、あくまで信念を貫いたのです。
壬生浪士組は、ほどなく新選組となる・・・。
近藤が局長となったのは28歳の時でした。

近藤たちは壬生・八木邸で寝食を共にしながら、京都の治安を守る活動を始めました。
翌年、池田屋事件で名をあげる近藤たち。
入隊希望者が増え、200人近くに膨れ上がります。
古臭いイメージが新選組には付きまといますが、新しい面が多く・・・
西洋医学をいち早く取り入れたり、西洋の知識をどんどん吸収していました。
新しいシステム・論理を持つ集団になって・・・そのベンチャー企業の若き社長が近藤でした。

近藤は、新選組を最強集団にしていくために、合理的な組織改革を行います。
隊士の健康管理
人数が増えたため、新選組の宿舎はすし詰め状態・・・夏は暑さと不衛生な状態で・・・けが人や病人の数は全体の1/3もありました。
このままでは市中見回りに支障が出る・・・と、ある人物を訪ねます。松本良順です。
最先端の西洋医学を身につけた医者でした。
江戸にいた良順を招き・・・
衛生面の改善・・・浴室を作り隊士を清潔に
           病室を作る
台所の改革・・・・・残飯で不衛生だったので、残飯はブタや鶏に食べさせて綺麗に
           豚や鶏も食べさせます
これらは、近藤の主導のもと即実行されました。
おかげで70人以上の病人がすぐに回復。
こうした改革を行いながら、近藤たちは再び大きな手柄を立てます。

1864年禁門の変
池田屋事件以降、京を追いやられた長州藩士が、勢力挽回を狙って武力で御所に突入しようとします。
御所を守る会津藩と共に、新選組も斬り込む・・・??と思いきや、近藤が主力としたのは鉄砲でした。
軍備面でも改革を行っていた近藤です。
新選組は西洋式の軍備を取り入れて日々訓練をしていました。
新選組を強くするためなら、どん欲に、スピーディーに取り組む近藤です。

鳥羽伏見戦いの前までの新選組隊士の死者数は46人・・・
その中で敵に殺されたか病死の者は僅か6人でした。
残りの40人は、粛清や切腹で命を落としていました。
これは、近藤が隊士たちに厳しい規律を守らせた結果でした。
それは・・・局中法度!!
副長・土方歳三と作ったと言われています。

一、士道に背きまじきこと
一、局を脱することを許さず
一、勝手に金策致すべからず
一、勝手に訴訟取り扱うべからず

これが守られない場合は、例外なく切腹!!従わない場合は粛清されました。
更に近藤は、市中見回りの際にも死を恐れずに戦うために、死番を作ります。
4人一組で見回りをし、敵と遭遇した場合最も危険な先頭を、日替わりで担当するというものです。
死番に当たった隊士は、見回り中、ずっと死の覚悟を持たばなければならない・・・
さらに新選組内で切腹が行われる際には、あえて新人隊士に介錯をさせました。
人を斬ることに慣れさせるためです。
隊士たちは、本来の武士ではないものも多く、近藤も武家の出身ではありませんでした。
”真の武士でありたい”という近藤の思いが、隊を強固なものにして行ったと考えられます。
当時の会津藩手紙に近藤の評価が残っています。

”50人を超える烏合の衆は、近藤一人の力でまとまっている”と。

カリスマ・近藤勇のトップダウンで最強組織となった新選組・・・。
しかし、近藤は傲慢な態度をとるようになり、新選組は内部分裂を起こしていきます。
発端は、参謀役の伊東甲子太郎との確執です。
伊東は幕府の権威が失墜していくのを見て、幕府の代わりに天皇中心の政治体制になることを強めます。
幕府を第一に考える近藤たちとは行動を共にできない・・・
そう考えた伊東は新選組を脱退!!
近藤についていけない隊士も、次々と脱退を申し出ます。
しかし、近藤は逆らうことを許さず、伊東を暗殺・・・他の隊士たちも切腹などして殺してしまいます。
そんな頃、幕府から新選組の隊士すべてが幕臣に取り立てられます。
多摩の農家に生まれた近藤にとって、幕府の直参となるのは光栄なことでした。
遂に、誰もが認める立派な武士になった・・・この時32歳でした。
しかし、近藤の志とは反対に、時代は大きく動いていきます。

1867年10月、大政奉還!!
徳川慶喜は将軍を朝廷に返上し、徳川幕府が終わりを告げます。
幕臣となってからわずか4か月・・・近藤が命をかけて守ってきた幕府は、もはや無くなったのです。
1868年1月鳥羽・伏見の戦い。
新選組は旧幕府軍として薩長の新政府軍と戦うも、負けを重ねます。
さらに新政府軍に錦の御旗があがり・・・新選組は朝敵の汚名を・・・!!
徳川慶喜は江戸に帰還し、新政府に恭順の意を示します。
しかし、近藤は徹底抗戦を唱え、出陣します。
目指すは甲府城!!
西から甲州街道を東に進んでくる新政府軍を食い止めようとしたのです。
近藤は、隊士の前で言います。

「戦いに勝てば、俺は10万石の大名。
 皆にもそれぞれの地位を与え、甲府城へ慶喜公をお招きしたい。」

近藤は、およそ170人の部隊を率いて甲府城を目指します。
しかし、途中で新政府軍が一足先に甲府に入ったと連絡が・・・その数1200人!!
圧倒的な勢力差に不安がる隊士たち。。。
近藤は、
「遅くとも、明朝に援軍が間に合う筈であり、共に戦う!!」

援軍が来るというのは苦し紛れの嘘で、隊士たちの士気を高めるものでした。
1868年3月、甲州勝沼の戦いで、新政府軍を前に大敗。
永倉らは会津での戦いを進言します。
しかし、近藤は新選組の方針を無断で決めたことに腹を立てこう言います。

「私の家臣となって働くのなら、同意しよう」

同志だと思って行動と一緒にやってきたのに、家臣として扱われることに激怒!!
近藤のもとから去っていきました。
近藤は、副長・土方歳三と再起をかけます。

江戸に戻って200人近くを募集し、千葉・流山に布陣!!
しかし、丁度隊士たちが訓練で出払っていた時・・・近藤たちは新政府軍に包囲されてしまいました。
もはや最期か??
武士らしく切腹しようとする近藤・・・

「ここで切腹するのは犬死に!!
 運を天に任せて出頭し、説き伏せるのが得策だ!!」by土方歳三

土方の強い説得で、大久保大和で投降。
正体を隠してその場を切り抜けようとします。
しかし・・・見破られてしまい・・・
味方であるはずの幕府からも、
「近藤の罪は、天下の人々が知るところであり、徳川慶喜の意に反するもの
 許容できない大罪である」と言われてしまいました。
1868年4月25日、近藤勇斬首!!

最期は、武士として切腹することも許されない・・・33年の生涯でした。
近藤の時世の詩が残されています。

義を取り 生を捨つるは 吾が尊ぶ所 
           快く受けん 電光三尺の剣
只まさに一死をもって 君恩に報いん

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新選組を歩く 幕末最強の剣客集団その足跡を探して [ 星亮一 ]

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