日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:金閣寺

今から70年以上前、京都・国宝金閣寺が放火によって焼け落ちました。
犯人は、驚くべきことに、金閣寺で修行する一人の青年僧でした。
犯人は、林養賢。
事件は、文学者の創作意欲を触発します。
三島由紀夫は、養賢が語った動機”美に対する嫉妬”という言葉を主題に名作「金閣寺」を執筆しました。
近年、その創作ノートが公開され、三島が事件をどう見ていたのかが明らかになりました。

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一方、自らも禅寺の修行そうだった・水上勉・・・20年の歳月をかけて事件の背景を調べ上げ、ノンフィクション「金閣炎上」を発表しました。

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事件のあと、再建を果たした金閣・・・その先頭に立ったのは、金閣寺の住職・村上慈海でした。
弟子に金閣を燃やされたその胸の内とは・・・??

戦後間もない日本を揺るがせた金閣寺炎上事件・・・その真相とは・・・??

金色に輝く名刹・・・金閣寺。
京都を訪れる人にとっては、必ず参拝したい場所の一つです。
世界遺産にも登録された美しい金閣は、かつて全焼した・・・という過去をどれだけの人が知っているのでしょうか?

1950年7月2日。
金閣寺が放火された日です。
私たちが目にする金閣寺は、事件のあと再建されたものです。
修行僧・・・林養賢。
養賢は、自分の持ち物を集めたトランクや布団、わらなどを金閣の一層部分に運び入れると、菌核と一緒に死のうとマッチで火をつけます。
木造三層の金閣は、雨の中、火柱を挙げて瞬く間に燃え落ちていきました。
林養賢は、どうして金閣と共に死のうとしたのか・・・??

歴史ある国の宝を一夜にして灰にした男・・・!!
事件後は、狂気の犯行だと新聞に掻き立てられました。
内気で優しい青年僧は、どうして日本中を揺るがす放火事件を起こしたのでしょうか?
若木松一は当時、西陣署の見習い警部でした。
火事の一報を聞くと、自転車で現場に駆けつけ、犯行に及んだ養賢を逮捕しました。
後に、若木メモと呼ばれるファイルには、若木が記した逮捕状の控えや、供述調書の下書きが丹念に残されています。
現場の遺留品リストには、放課後、養賢が自殺に使った薬物・カルモチンの空き箱も・・・!!

「私が放火した犯人に相違ありません
 私の主観では、悪いことをしたとは思ひません」by養賢

罪を認めた養賢でしたが、わかりやすい犯行理由を話すことはありませんでした。
3回目の供述ではこう述べています。

「私が金閣を焼いたことは、私の行ひを見ると見にくい(醜い)ので、美に対する嫉妬の考へから焼いたのですが、真の気持ちは表現しにくいのであります」by養賢

林養賢とは、どんな生い立ちだったのでしょうか?

京都府北部舞鶴市成生・・・若狭湾に面した20戸ほどの小さな漁村で生まれました。
林養賢は、昭和4年、この村唯一の寺の息子として生まれました。
住職の父と、母と3人で暮らしていました。
父は病弱で、しっかり者の母が寺を切り盛りしていました。

友達と遊ぶことも無く、家で勉強させられていた養賢。
母・志満子は、教育ママでした。
息子を大きな寺へ入れて、僧侶として大成させたいと野望を抱いていました。
村で、唯一中学に進学した養賢。
翌年、父が死去。
父は亡くなる直前に、つてのあった金閣寺の住職に息子を僧侶として指導してほしいと書き送っていました。
父親は、「金閣ほど美しいものはない」と、養賢を育てていました。
期待を一身に背負って旅立った養賢は、こうして憧れの金閣寺へと向かいました。

「金閣炎上 若き僧はなぜ火をつけたのか」



京都の名刹・金閣寺・・・室町時代に、将軍・足利義満が構えた別荘で、一時は政治、文化の中心でもありました。
なかでも金閣こと舎利殿は、技巧の粋を凝らし、二層、三層部分には金が塗られていました。
義満の死後、遺言で禅寺・鹿苑寺となり、明治以降は観光名所として全国に知られるようになりました。
そんな金閣寺で、師匠となる住職・村上慈海のもとで得度した養賢。
慈海の計らいで、昭和22年、大谷大学予科入学。
友人となる鈴木と出会いました。
養賢は鈴木を招き、泊まり込みで好きな文学や夢を語り合いました。
養賢は、まるで金閣に聞かせるかのように尺八を吹いたといいます。
しかし、夢と現実は違っていました。
当時の寺は、食べ物も十分になく、養賢は、おなかをすかせていました。

「私は寺の使役をやり乍ら大谷大学へ通って居りますが、毎月寺から七百円くらいもらっておりますが、小使には不足して居ります」by養賢

やがて、養賢は、大学を休みがちとなり、寺のものとも上手くいかなくなってきます。

「私は寺の中で狂人扱いされている様な、主観的考を持ったこともありました
 私は自分はつまらぬ人間だといふ事を感じ乍らも、亦英雄だといふ
 人よりは偉い自分だといふことも、時々考へが起こるのであります」by養賢

当時、養賢が母への愚痴をこぼしていました。
母とはそりが合わず嫌っていたのです。

「和尚になるまで帰ってくるな!!
 住職になったら開けてやる
 なんでも食べさせてやるから」

と、追い返しました。

母から突き放され、買えるべき家も失った養賢。
唯一の家族の母からの拒絶は、養賢に大きな影響を与えました。

養賢は、欠席が増えるにつれ、2年、3年と席次が下がっていきます。
留年確定・・・どうする??
和尚は、説教をします。
金閣寺を追い出されるかもしれない・・・追い詰められた養賢でしたが、それでも町をぶらつき、映画を見て過ごしていました。
師匠の慈海は、後の取り調べで、当時の養賢を、青年によくある憂鬱症の一種だと思っていたと述べています。
事件の1か月前、養賢は、学校に来るように説得に来た友人の鈴木に・・・
三階の究竟頂の屋根も、鳳凰も、全部真っ白な冬劇詩の金閣の写真・・・

「これ、俺の一番好きな金閣や」by養賢

これが、2人であった最後の時となりました。

「金閣を支配できないなら、金閣と共に死のう」by養賢

それからの養賢は、周到な死への準備に入りました。

6月18日・・・書籍を売ったお金で遊郭に・・・

「新聞になるようになるがよいか・・・」と語っています。

小刀と睡眠薬100錠を購入。

6月30日・・・折しも寺の火災報知器が故障。。。
決行は明日の夜しかない!!

7月1日の晩・・・養賢は、和尚の世話を終えると夜10時ごろから客人に誘われて碁を打ち、12時ごろに終えました。
金閣にもの周りのものとわら束を持ち込み、火をつけたのは翌2日・・・午前3時ごろのことでした。

「最上階の究竟頂で、金閣と共に死のうという考えが起き、二階に上がろうとしたが鍵が開かず、火が勢いよく吹き上がってくると恐ろしくなり、金閣を飛び出し、大文字山に走りあがった」by養賢

山の中腹で、カルモチンを飲み、切腹を図るが、死にきれなかったといいます。

消防車の放水が始まった頃には、金閣はすでに躯のような状態でした。
この放火で、足利義満の木像・運慶作の菩薩像など、貴重な国宝がすべて焼失し、灰となりました。
夜が明けると、寺に養賢の姿だけが見当たらず、付近の捜索が始まりました。
夕方、養賢は、左大文字山の中腹で、腹から血を流しているところを発見されました。

逮捕の翌日、郷里から母・志満子が駆けつけました。
西陣署に収監された息子に面会するためでした。
息子から面会を拒絶された志満子は、帰りの列車から投身自殺しました。

「死んでお詫びを・・・」

という母の死は、大きく報じられましたが、警察の配慮で養賢には伏せられました。
養賢は、最後まで自分の罪を悪いとは認めず、ただ断頭台に登らせてほしいと訴え、供述は終わっています。
その年の暮れ、裁判で懲役7年の判決が下されました。
明確な真相を語らぬまま、出所後程なく病死しています。

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事件は、国民に衝撃を与え、新聞、ラジオで大きく報じられます。
一方、創作意欲に掻き立てられた2人の作家がいました。
それが、三島由紀夫と水上勉です。
事件当時25歳、新進気鋭の作家だった三島由紀夫は、美に対する嫉妬という犯人・林養賢の言葉に触発され、あの名作「金閣寺」を執筆します。
一方、作家を目指しながらも、職を転々としていた水上勉は、自分と驚くほど境遇の似ている林養賢に強い興味を抱きます。

1冊の本があります。
三島由紀夫と水上勉の作品を徹底的に読み比べた酒井順子著「金閣寺の燃やし方」です。
2人は同じ事件に惹かれ乍ら、全く違う視点で事件を見ていました。
水上勉は、敢えて意識的に「裏日本」という言葉を使っています。
裏日本・・・今ではあまり使ってはいけない言葉になっています。
三島は表日本の視線、水上は裏日本の視線から書いています。
表との格差、違い・・・それを水上は意識的に表に出しています。
三島由紀夫は、表側の視線、中央の視線・・・”日の当たる部分”から”影の側”を見るという書き方をしています。

対照的な作家が見た金閣炎上とは・・・??

東大を出て、大蔵省に就職、エリートコースを歩んだ三島由紀夫。
三島は林養賢が供述で動機として語った「美に対する嫉妬」という言葉に惹かれ、事件に興味を持っていきます。
小説「金閣寺」は、主人公が自分の醜さが理由で金閣の美に惹かれる物語です。
やがてその美が、自分の人生を阻んでいると感じ、決意します。

「金閣を焼かなければならぬ!!」と。

三島の金閣寺執筆時のノートが公開されました。
そこには、美への嫉妬と共に、新たなキーワードが書かれていました。

”絶対的なものへの嫉妬
 相対性の波にうづもれた男
 絶対性を滅ぼすこと”

絶対者=人生を困難にならしむるもの
だからそれを滅ぼす・・・

金閣の美が、いつしか三島の中で”滅ぼすべき絶対性”と置き換わったのです。
主人公の溝口が、戦争によって金閣寺や京都が焼けてしまえばいいのにと、強く思いながらもそうならない・・・
そうならなかったことに対する失望が描かれています。
そんな中で、敢えて溝口が自分が求めている”美”に接する為に金閣寺を燃やすというのは、どこかで三島由紀夫の感覚とつながっています。
戦争で、全てのものが滅びるはずでした。
しかし、敗戦後の世界で、人々は何も変わっていないかのように生きている・・・
退屈な、戦後社会への三島の失望が、この小説には込められているのです。

金閣寺のラスト・・・火を放った主人公は、突如、生きようと決意します。

「私は煙草を喫んだ。
 一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。」by溝口

それは、戦後社会と折り合いをつけ、生きようとする三島の決意の表れでもありました。

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もう一人・・・放火事件に強い影響を受けた作家が水上勉です。
水上は、20年かけて事件を取材し、1979年にノンフィクション「金閣炎上」を世に問いました。
放火事件当時、駆け出しの作家だった水上・・・新聞の号外で事件を知り、むさぼるように読みました。

「新聞の一字一字は、私を極度に興奮させ、緊張させ、考えさせた・・・
 浦和にいるのがもどかしかった。
 京都にいたら、野次馬に加わって、焼け跡へ飛んでいただろう・」by水上勉

驚きはそれだけではありませんでした。
犯人は若き修行僧・・・!!
郷里も自分とごく近かったのです。

福井県の貧しい家に生まれ、口減らしのために10歳から京都の禅寺で小僧生活を送った水上・・・
辛さに耐えかねて、逃げ出し、還俗・・・犯人は水上とあまりにも境遇が似ていました。
水上勉が直木賞を取った「雁の寺」は、自分がお寺で務めているときのことを書いています。
辛い思いをして、最終的に住職を殺めてしまうというお話です。
そんな体験があったからこそ、林養賢の気持ちがよくわかったのです。
水上は養賢の故郷を何度も訪ね、60歳近くになってようやく執筆をはじめました。

「金閣炎上」の冒頭には、水上と犯人・養賢が戦時中、青葉山の峠で出会ったという印象的なエピソードがあります。

”私は絶句した。
 六年前高野分教場にいたころ、青葉山うらで逢った中学生がやったのだ。
 帽子をあみだにかぶった額際のせまい男。
 私と滝谷の会話に聞き入っていた吃音少年だ。
 あの男が火をつけたか。”

水上が晩年を過ごした長野の山荘に、大量の草稿が残されていました。
近年、この草稿から、作中のふたりの出会いについて新たな発見がありました。

偶然一度であったことがあったと書かれています。
当初は、金閣寺を舞台にした客観小説として書き始められ、やがてタイトルも変わり、作者自身が語り手となる一人称のノンフィクションとなりました。
その時、養賢と作者が出会うというエピソードが付け加えられたのです。
水上は、ノンフィクションという形式なのに、敢えて、一点の虚構を入れて書いたことになります。
林養賢と、水上勉本人の”つながり”・・・
運命的なものを、フィクションの形で作り上げることによって、真実を語ることができる・・・!!

水上が、そこまでして書こうとしたものとは何だったのでしょうか?

”私が先に、養賢に金閣放火を決意させたものは、金閣寺内の事情をおいて考えられない、と再々言ってきたのはこの消息である。”

平等であってしかるべき仏教の世界の中にも、いろいろな区別や差別があったり、下の者につらい体験が強いられる・・・そんな部分を水上が知っていて、林養賢は、仏教の世界に対する思いが募って、内側から問題提起をしたいという意味もあって放火をしたのでは??

水上は、先に発表された三島の「金閣寺」についてこうのべています。

「お寺の長い廊下をふくぞうきんの冷たさだけだと思った
 ぞうきんにはにおいもある
 そのにおいを私は書きたかった」by水上

真相はわからない・・・だからこそ、金閣放火は作家たちによって人々の記憶に残るものとなりました。

”美に対する嫉妬”という言葉だけを残し、ハッキリとした動機がわからないまま幕を閉じた金閣寺放火事件・・・

三島由紀夫“金閣寺” (1)「美と劣等感のはざまで」



金閣再建に尽力したのは、村上慈海・・・金閣寺の僧侶が金閣寺に火を放つ・・・事件は、慈海の人生に、終生大きな影を残しました。
弟子の教育もできていない・・・批判にさらされました。
その後、慈海は、金閣再建のために奔走します。
三島の金閣寺でも、水上の金閣炎上でも、慈海をモデルにした住職は、金と女遊びに溺れる俗物と批判的に書かれてきました。
しかし、その実像はほとんど語られてきませんでした。

事件当日、消失した金閣の前にたたずむ慈海の姿がありました。
この日、NHKの取材に応じた音声が残っています。

「こういう時期に、国の大事なお宝をお預かりしておって、住職としては国民の皆さんには本当に申し訳ないことした」

弟子の放火で国宝を失ったことを、詫びる慈海・・・
金閣寺に少年の時代から暮していて、それを引き継いできて、次の世代に渡す役割を持っていました。
それが途切れたのです。
そのことの責任感・・・それはすごく重いものでした。

焼失を背負った男・・・
金閣寺・・・歴史を独り占めできる贅沢さは、弟子の誰もが持っていました。
魅力のとりこにさせる部分は、金閣は持っていたのです。

放火事件について慈海はどう語っていたのでしょうか。
”慈しみの海”という道号の如く、大きくて広い人・・・
あの事件については、一言も口にはしませんでした。
師匠の育て方がまずかったと・・・誤解されている部分は大きくありました。

禅宗の僧侶でありながら、金の力で愛人を囲う小説「金閣寺」の和尚。
醜悪な戦後社会を体現する存在として描かれていました。
おかげで慈海のイメージは地に落ちていました。

「私の不徳の致すところです」by慈海

さらに、水上もこう書きました。

”徒弟教育には、性癖ともいえる吝嗇心が作用していたけはいがある。”

吝嗇・・・ケチということです。
水上は、慈海を吝嗇家と描いています。
しかし、弟子の養成、学費に使う・・・小僧を育てるのはお金がかかります。
慈海と養賢の間には、もっと根源的な何かがあったのではないか??

養賢が取り調べ中に書きなぐったわら半紙が・・・

「生とは如何? 死とは如何?
 生死なんて全く無意味だ」

養賢は、どうしてそのような境地に至ったのでしょうか?
公判史料によると、事件前の養賢は、慈海に生きることの意味について問うたことがありました。
その記録から・・・??
われわれはなんで生きているのか?
そこに色々な意味が欲しい・・・
しかし、本来は意味なんてない・・・!!

何のために生きているのか?
ただ生きるために生きている

事件のあと、焼け跡で慈海は何を思ったのか・・・一言も話すことはありませんでした。
すぐに再建に向かって動き出しました。
当初、周囲の反応は冷ややかでした。
戦争が終わってまだ5年・・・日本の国自体がどうやって再建するかという時代でした。
そんな中、慈海は毎朝、たった一人で托鉢に出るようになりました。
住職自ら街角に立つ姿に、市民の気持ちも変化していきます。
地元の人で、慈海を悪く言う人はいませんでした。
一方、刑務所の養賢からは、慈海におびただしい手紙が送られてくるようになっていました。

「あの夜のことが、いまひしひしと悔いられ、土に伏したい気持ちであります。
 おゆるし下さい。おゆるし下さい。
 何とぞ、おゆるし下さい。」by養賢

慈海の気持ちはどのようなものだったのでしょうか?
寺から衣類や書籍などの差し入れがあったという記録だけが残っています。

事件から2年後、全国5万人の寄付によって、金閣再建に向けて工事が始まります。
その頃、養賢は結核が進行し、精神状態も急激に悪化、意思疎通もできなくなっていました。
昭和30年10月、新しい金閣の落慶式が行われました。
焼失前より、さらに輝きを増した舎利殿を一目見ようと多くの人が殺到しました。
奇しくも同じ月、養賢は釈放され、そのまま病院に入院、半年後、結核でこの世を去りました。
慈海はその後30年にわたって住職として弟子を育て、その朴訥な人柄で皆から慕われました。

金閣の仏間には、林養賢、そして養賢の母親も祀られています。
放火犯である養賢と母・志満子の位牌が金閣寺の中に祀られているというのです。
戒名は誰がつけたのか、わかっていません。

しかし・・・その戒名”正法院鳳林養賢居士”
林養賢の俗名の上に、鳳林・・・金閣の上の鳳・・・金閣を象徴した戒名です。
それは、慈海の養賢への思い・・・慈しみを感じます。

放火事件から35年後、村上慈海は、83歳で亡くなりました。
金閣に捧げた生涯でした。

前代未聞の放火事件から、70年以上が立ちました。
仏教界への批判、境遇への不満、自己嫌悪・・・様々な読み説きがなされてきましたが、本当の犯行理由は今もわかりません。
一方、あの時燃えた金閣は、多くの人の尽力で不死鳥のようによみがえり、さらにまばゆい光を放っています。
建物は一度滅んでも、人々の思いは滅びることはありません。

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1970年、6000万人を集めた大阪万博・・・人々が豊かさに酔いしれたその年に、事件は起きました。
1970年11月25日、東京自衛隊市ヶ谷駐屯地・・・
作家・三島由紀夫ら4人の学生が乱入・・・人質を取り、自衛隊に決起を訴えました。

「自衛隊が20年間治と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだよ
 どうしてそれに気が付いてくれなかったんだ」by三島由紀夫

大演説を打った直後・・・まさかの割腹自殺!!
世界的作家の身に何が起きたのか??

世界に誇る文豪・三島由紀夫・・・金閣寺・潮騒など、数々の名作を残した小説家です。
しかし、三島の顔はそれだけではありません。
自分の肉体をとことん鍛え上げた三島・・・
自衛隊に体験入隊した三島・・・
映画に出演した三島・・・
本名・平岡公威という素顔の三島・・・
そして、彼の最期の装いは、自ら設立した楯の会
隊長の三島由紀夫でした。
自らの手で45歳の生涯を閉じたのは、果たしてどの三島だったのでしょうか??

三島は、デビュー当時から異彩を放っていました。
「仮面の告白」・・・24歳で書いた2作目の小説は、同性愛の世界を書いて話題に・・・。
一躍戦後日本を代表する作家に上り詰めました。
その後、金閣寺や潮騒などベストセラーを量産・・・
海外でも数多く翻訳され、30代にしてノーベル文学賞の候補になりました。
国内外問わず、その発言は注目を集めました。
小説だけでなく、戯曲も書いて映画にも出ました。
ボディービルで肉体を鍛えたかと思えば、自衛隊に体験入隊・・・
やることなすこと全てが型破り!!
もっともダンディーな男としてランキングでは角界のスターを押さえ、堂々の1位!!
知性と行動力を併せ持つ、まさにジャンルを超えた時代のスーパースターでした。
そんな三島の突然の自決・・・あの時、いったい何があったのでしょうか??

1970年11月25日、その日・・・良く晴れた秋の空には、新聞社のヘリコプターが飛び交っていました。
東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地に三島由紀夫と楯の会が乗り込み、大事件を起こしたからです。
三島たちは、自衛隊トップの一人を人質にとりました。
三島と楯の会の4名が、刃物で総監を拘束しています。
ドアの前にはバリケードが築かれました。
しかし、数分後、異変に気付いた自衛官が総監の救出を試みます。
バリケードを破り、総監室へと侵入、三島たちともみあいになりました。
そして三島は、日本刀で自衛官に斬りつけます。

三島の死の直前、総監室では何が行われていたのでしょうか??
防衛省の中枢・・・東京自衛隊市ヶ谷駐屯地・・・
およそ1万人の自衛官を擁する敷地の一角に、事件の舞台となった建物の一部が資料館として残されています。
旧一号館(現・市谷記念館)です。
当時、自衛官として働いていた寺尾克美。
あの日、直接三島と渡り合いました。
午前11時・・・
三島は、自衛隊トップの一人、東部方面総監のもとを訪れていました。
かねてより、国防問題に深い関心を寄せていた三島・・・体験入隊を通じて、自衛隊とは親密な関係を築いていました。
自ら結成した楯の会の学生を連れ、駐屯地を出入りするのもいつものことでした。
寺尾たちも、通常の任務に就いていました。
ところが・・・「総監が監禁されている・・・!!」
同じフロアにいた寺尾は、事実を把握しようと仲間と向かいました。

11時05分・・・バリケードでドアが開かない!!

やぶって部屋に飛び込むと、目に入ったのは総監は縛られて・・・
「一歩でも近寄ったら刺すぞ!!」と、総監に短刀を刺しつけていました。
短刀を突き付けていたのは、楯の会の学生でした。
三島は奥の入り口にいましたが、薄暗く、確かな様子はつかめませんでした。

寺尾は、学生の持っている短刀を奪いにかかります。
その時、背後からやってきたのが、三島でした。
三島が持っていたのは、木刀ではなく日本刀でした。
寺尾の傷の長さ30センチ・・・深さは、肋骨にまで及んでいました。
自衛官たちは、三島の太刀筋からあることを感じ取っていました。

殺すつもりは毛頭ない・・・

三島に、殺意はありませんでした。
もみ合いの末、9人の自衛官が負傷・・・目的は、何だったのでしょうか??

事件を伝えるマスコミでも情報が錯そう・・・

午前11時50分・・・三島は自衛隊に要求書を突き付けます。
その要求に騒然・・・!!

市ヶ谷の自衛官を本館前に集合させ、三島の演説を静聴させること
そして、条件が守られず・・・あるいはその恐れのある時は、直ちに総監を殺害して自決する!!

有名作家が、自衛隊を巻き込んだ前代未聞の大事件・・・およそ1000人の自衛官、警察、マスコミが駆け付けます。
三島は一体何を訴えるのか・・・??

正午・・・

「私は自衛隊に、このような状況で話すのは悲しい・・・」

ヘリコプターにかき消される演説・・・そんな中、三島は自衛隊への思いを叫びます。

「どうして、自分を否定以する憲法にだね
 自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ!!
 自衛隊は違憲なんだ
 ついに、自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったということにどうして気付かんのだ
 どうしてそこに縛られなきゃいかんのだ!!」by三島由紀夫

演説開始からおよそ8分・・・
三島は最期の言葉を投げかけました。

「諸君の中に、ひとりでも俺と一緒に起つやつはいないのか
 ひとりもいないんだな、よし!!
 憲法改正のために立ち上がらないと、見極めがついた
 これで俺の自衛隊に対する夢は、なくなったんだ」by三島由紀夫

そう言い放つと、総監室に戻った三島は、楯の会・森田必勝と共に割腹自殺を遂げました。

この日、三島と行動を共にした楯の会の会員は4人・・・それ以外は、駐屯地横の市谷会館に集まっていました。
およそ30名が、何も知らされずに・・・!!
楯の会・・・三島が、愛国主義の学生らおよそ100名を集めて作った組織です。
きっかけは、彼等から原稿を依頼されたことでした。
国を思う熱意に感銘を受けた三島は、以後、行動を共にしました。
当時の日本は、学生、労働者による反体制運動の嵐が吹き荒れていました。
彼等と正反対の思想を掲げた三島・・・
楯の会の会員と、自衛隊に体験入隊を重ね、非常時に備えての訓練に打ち込みました。
あの日も、月に一度の例会が行われる日でした。
しかし・・・三島は現れませんでした。
彼等は警察の指導の元、外へ・・・!!
結局、彼等は機動隊に阻まれ、三島のもとに駆け付けることはかないませんでした。
多くの会員たちには明かさぬまま、決死の行動に出た三島・・・
その最期の言葉を聞いたのは、監禁されていた益田兼利東部方面総監でした。

「なんでこういうことをするのか」by益田

「仕方がなくなったんだ
 これが終わったら、腹切って死にます」by三島由紀夫

仕方がなくなったんだ・・・その言葉を残して、三島由紀夫は割腹しました。

様々な人を巻き込んで、衝撃的な死を選んだ三島由紀夫・・・

三島が楯の会を立ち上げたのは、1968年。
人々は、高度経済成長を謳歌し、バラ色の未来を夢見ていました。
三島はそんな日本に、強い違和感を示しました。

「僕は今の日本人が”日本人”と誇りにする何が誇りの根拠か
 トランジスタラジオでも世界中に有名だ
 造船が世界一になりつつある
 なんだかんだって言うんじゃ僕は満足しないですね
 ただ、誇りだ 日本人は偉いんだと言ってるんで、てめえの足元はどうだって言いたくなる」by三島由紀夫

守るべきは、経済至上主義の日本ではなく、神としての天皇を中心とする精神文化の国・・・日本・・・三島は著書を通じて、独特の愛国思想を語っていました。
その三島が、正反対の思想を持つ全共闘の前に単身で現れました。

1969年5月13日、東大900番教室!!

そして驚くべきことをいい放ちます。

「安田講堂で、諸君が立てこもった時に、天皇という言葉を言えば、私は喜んで一緒に閉じこもっただろう
 これは私はふざけて言ってるんじゃない」by三島由紀夫

まさかの発言に、会場は沸きました。

最後には、学生の代表が出てきて三島に対して
「我々は、あなたの主張を認めるわけにはいかない
 しかし、たった一人で出てきた勇気は認める」と言って、学生代表と三島が壇上で握手しました。

三島はこの集会で、後の決起を予想させる言葉を残しています。

「私が行動を起こすときは、結局諸君と同じ、非合法でやるほかないのだ
 非合法で、決闘の思想において人をやれば、それは殺人犯だから、そうなったら自分もおまわりさんにつかまらないうちに、自決でも何でもして、死にたいと思うのです」by三島由紀夫

100名の制服をオーダーメイド・・・楯の会費用は、すべて三島が負担しました。

楯の会の目的は、左翼勢力から日本を守ることでした。
当時は、右を向いても左翼、左を向いても左翼でした。
共産革命で、世界的にそんな時代でした。  
協賛革命を防ぐにはどうするのか??
「祖国防衛隊」を作ろうと、民間の防衛組織を作ろうとしたのです。
日本を守るために・・・!!

自衛隊で訓練を積んだ三島たちに、目指す日がありました。
1969年10月21日・・・国際反戦デーです。
1968年のこの日、新宿騒乱事件が起きました。
全国から、およそ4500人のデモ隊が集結・・・新宿駅に乱入し、投石や放火で交通機能が麻痺状態に陥りました。
69年の国際反戦デーは、更なる反乱が予想され、警察は、厳戒態勢を敷いていました。
三島の狙いは・・・??
現在の平和憲法のもとでは、自衛隊の出動は許されない・・・
しかし、警察が、左翼勢力に敗れた時、国は自衛隊の武力に頼らざるを得ないだろう!!
その時こそ、憲法改正の声も高まる・・・!!
道も開ける!!
楯の会は国防のため、自衛隊と共に戦えるはずでした。

しかし、三島の目論見は外れます。
機動隊によって暴動は鎮圧!!
1400人を超す検挙者を出して、ことは終息したのです。

そして、三島は・・・出番が無くなってしまいました。
もう、手段がない・・・!!
腹を切って、日本人に覚醒を促そう・・・!!
それしか方法がない!!

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そして1年後、1970年11月25日・・・
三島は楯の会の学生4人と共に、市ヶ谷へと向かうのです。

「諸君は、去年の10.21から後だ
 もはや、憲法を守る軍隊になってしまったんだよ
 自衛隊が、20年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだよ
 もうそれは、政治的プログラムから外されたんだ
 もうこれで、憲法改正のチャンスはない!!
 自衛隊が国軍になる日はない!!
 建軍の本義はない!!
 それを私は最も嘆いていたんだ!!
 自衛隊にとって、建軍の本義とは何だ??
 日本を守ること、日本を守るとは何だ!!
 日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである
 
 男一匹が、命をかけて諸君に訴えているんだぞ!!」by三島由紀夫

日本に連綿と続いてきた歴史、文化、思想・・・それを大事にしていくべきではないか??
その象徴として天皇と言っていました。
軍国主義とか、愛国主義とか、天皇崇拝者ということではないのです。
何か今、自分たちが立ち上がらなければ、この国は変えられない・・・!!
若者特有の高揚感と使命感で、全共闘運動が各大学に広まっていました。
根っこでは、似ているのです。

三島由紀夫の割腹自殺・・・それは、日本中に大きなショックを与えた大事件でした。
ニュースは、世界中を駆け巡りました。
アメリカ・・・理解超すハラキリ
旧ソビエト・・・右翼台頭への兆候
イギリス・・・2.26事件を想起

しかし、これは三島の本意だったのでしょうか??

あの日の朝、三島はひとりの男を呼び出していました。
市ヶ谷会館に行ったのは・・・元サンデー毎日の記者でした。
徳岡孝夫は、市ヶ谷会館で思わぬ光景を目にします。
バルコニーで・・・向かってくるパトカーを発見!!
「何かあったに違いない!!」
楯の会の青年が来て、「隊長から渡された手紙があります」と渡されました。
封筒に入っていたのは、手紙と演説の主旨が書かれた檄文・・・!!
計画が失敗した時のためにと、三島が託したものでした。

「御多用中かへりみずおいでいただいたのは・・・
 事柄が自衛隊内部で起きるため、もみ消しをされ、小生らの真意が伝はらぬのを恐れてであります」

自衛隊を見学中に、不慮の死を遂げられたと発表されたらたまらん!!ということです。
隠蔽して、事件の内容を隠して報道されるようなことは困るというのです。

どうして徳岡に任せたのでしょうか??
徳岡が、初めて三島にあったのは、事件の3年半前・・・
自衛隊での体験入隊を終えた三島を取材したときのことでした。

”などて すめろぎは 人間(ひと)となりたまいし”

なぜ天皇は人間になったのか・・・??
と繰り返していました。
三島は小説「英霊の聲」で、敗戦後、人間宣言をした天皇を批判・・・タブーに切り込んだ姿勢が、論議を呼んでいました。
その頃、自衛隊への体験入隊も世間を騒がせました。
どれほどの曲者なのか・・・??
しかし、その素顔は意外なものでした。

自衛隊体験を・・・男の子が家に帰ってきてしゃべっているように、嬉々としていました。
そこで徳岡は、意地悪な質問で揺さぶります。

「体験入隊っちゅうのは、マゾ的快感を得るための遊戯やったんですか??」

「とんでもない!!」

物おじせず、不躾な質問をする関西弁の雑誌記者に、徐々に心を開いていきます。
自決の3年前・・・三島がタイのバンコクに滞在していた時の事・・・
海外特派員としてバンコクにいた徳岡は、三島をたずねました。

東京から電報が入ったのです。
「ノーベル賞の発表があるかもわからない!!」と。

当時の三島は、日本人初のノーベル文学賞最有力と言われ、その評判は海外の有名雑誌に特集されるほどでした。
前もって、三島の予定談話をもらっておきたかったのです。
すると三島は、アメリカの観光客に「自衛隊はなぜ必要か」を英語でしゃべていました。
やっと三島に気付いてもらった徳岡が、予定談話を依頼すると・・・
三島は、「騒音を避けているんですよ」と言いました。
1年前に、ノーベル賞の予定談話を発表して、それが漏れてバツの悪い思いをしたとのこと・・・。
三島は、周囲の期待を避けるために日本を離れていたのです。
翌年・・・1968年10月17日、ノーベル文学賞発表の日・・・
日本人で初めての受賞者が生まれました。
川端康成です。
三島が師と仰ぎ、慕っていた文豪でした。
三島も早速、祝いに駆けつけました。
日本文学が、世界に認められたことが嬉しい・・・自決の2年前の言葉です。
 
太平洋戦争末期・・・20歳を迎えた三島も戦地に向かう筈でした。
しかし、出生直前の検査で、肺の欠陥として入隊を免れます。
入るはずだった部隊は、フィリピンでほぼ全滅・・・!!
この経験が後の人生に大きく影響していきます。

三島の自伝的小説・・・仮面の告白・・・。
主人公に、自らの葛藤を託しています。

「なんだって私はあのようにむきになって、軍医に嘘をついたのか
 微熱がここ半年続いているといったり、血痰が出るといったり、私は自分を死に見捨てられた人間だと感じることのほうを好んだ」

その生を自分は与えられているのに、無為に過ごすのは許せない・・・!!
充実した人生を生きなければならないという切迫感を持ち続けていたのだろうか??
三島は、過去の自分のあらがうかのように肉体を鍛え始めます。
次々とベストセラーを生み出し・・・それでも満たされない心のうちを明かしています。

「自分はなぜ生き残っちゃったかっていつも考える
 お前、20年間何してたんだってこと言われると、グッと詰まる
 文学で日本に貢献してたって言えるかどうか」by三島由紀夫

小説を書いているだけでは物足りなくなっていきます。
行動が重要になり、自分が生き残ってしまったという気持ちが、その行動が命がけじゃないといけないんじゃないか??となるのです。
そうなったときに、若い人たちの中に、三島の思想に感銘を受けて集まってきた人たちがいたのです。
三島は心を動かされ、自分の居場所があると思ったのかもしれません。

三島が、どうして自決を選んだのか??
真相は誰にも語っていません。
しかし、そのヒントとなるインタビューが残っています。

「人間の生命というのは不思議なもんで、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど人間は強くない
 人間は、何か理想なり、何かのためということを考えているんで、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう
 死ぬのも何かのため、ということが必ず出てくる
 ”大義”というものです
 そして大義のために死ぬことが、最も華々しい英雄的な立派な死に方・・・」by三島由紀夫

そしてあの日・・・
命を絶つ1時間前・・・三島は自らの主張を記した檄文、そして手紙を徳岡に託しました。

「檄は、何卒、何卒、ノーカットで御発表いただきたく存じます
 願ふはひたすら 小生らの真意が正しく世間へ伝はることであります」by三島由紀夫

そして、檄文には、
「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た
 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ
 生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか
 生命以上の価値なくして、何の軍隊だ
 今こそ我々は、生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる
 それは、自由でも民主主義でもない
 日本だ」

「日本を守るとは何だ
 日本を守るとは天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである」

徳岡は、怒号が飛び交う中、三島の声を漏らさず書き留めました。
翌週、徳岡は、三島との約束を果たしました。
檄文を、ノーカットで掲載!!
それは、数ある週刊誌の中で、徳岡の記事だけでした。
高度経済成長を謳歌する日本人に大きな衝撃を与えた三島由紀夫の自決・・・
もちろん、あの日の行動は、法に照らせば許されることではありません。
しかし、その死は、半世紀たった今も、強烈な印象を我々に突き付けてきます。

生前、三島はこんな言葉を残しています。 

「僕が死んで、五十年か百年たつと
 ああ、わかったという人がいるかもしれない
 それで構わない」by三島由紀夫

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室町幕府3代将軍・足利義満

京都市北区にある足利将軍家の菩提寺・等持院。
ここに治められた歴代足利将軍の中で、異彩を放っているのが三代将軍・足利義満像です。
義満は、明との貿易で莫大な富を得、室町幕府の基礎を築き、強大な権力を持ちました。
そんな義満は健康そのもの、10人以上の側室と、20人以上の子供がいました。
そして、金閣寺を建立、人生の絶頂を迎えます。
51歳の時には、寵愛していた4男の義嗣が元服。

ところが、その後しばらくして・・・
1408年5月6日、突然51歳で亡くなります。
義満突然死の理由とは・・・??

死因①風邪説
公家・山科教言の日記「教言卿記」には、義満が体調不良を起こしてから亡くなるまでが克明に描かれていました。
4月27日、義満が体調不良を起こし寝込みます。
翌日にはひどい頭痛を発症。
診察を受けると・・・診断は流布の病・・・つまり、風邪でした。
29日には回復の兆しを見せるも、5月1日悪化・・・。
見舞いに来てくれても断る酷さでした。
3日後には危篤・・・しかし、夕方には持ち直しました。
5月6日、容態が急変し、そのまま息を引き取りました。
本当に風邪なのか・・・??

隊長の安定と悪化を繰り返す症状から風邪とは考えにくい・・・。

死因②毒殺説
当時、世間では突然死に毒殺されたのでは??と持ちきりでした。
というのも、この頃、義満の子供である嫡男・義持と4男・義嗣の後継者争いが勃発していました。
義持は名目上将軍職を譲られていましたが、周囲では・・・
「義満公は、弟である義嗣さまの方を寵愛していらっしゃるから・・・将軍職は、義嗣さまがとってかわるだろう。」といわれていました。
このままでは将軍職を奪われてしまう!!と思った義持は、父・義満を毒殺したというのですが・・・

義満毒殺説は・・・??
悪化と平静を取り戻す・・・義満が体調を崩してから8日も経って亡くなっていることから、毒殺ではないと考えられます。

足利義満の死因は、くも膜下出血と考えられます。
最初に小さな脳動脈瘤が破裂、二度目の破裂で大出血・・・??
くも膜下出血は、突然死を引き起こす代表的な病気で、義満のように体調の経過は、一度破裂したコブが再度破裂したために起こったものと考えられます。
風邪の症状に非情によく似ています。

室町幕府3代将軍・足利義満
病歴:なし
死因:くも膜下出血
没年齢:51歳
でした。


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あ・・・私の知っている義満は、おバカなこの人です。

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一休さんで、桔梗屋さんと一緒にとんちで一休さんにコテンパンにやられて地団駄ふむ義満さんです。
で、一休さんが天皇の御落胤だったので、目付に新右衛門さんをつけたのよね揺れるハート

でも、本当はすごい人、日本を大きく変えた人です黒ハート
鹿苑寺金閣・・・今から620年前・・・京都で文化の華を咲かせた一人の男によって作られました。
足利義満・・・中世、動乱の日本に君臨した室町幕府第3代将軍です。
北山文化の創始者として知られる義満・・・長い間、歴史の悪役として語られてきました。

自らの理の為なら冷酷無比になる策略家・朝敵という汚名・・・傲慢な権力者としてのイメージが強いのですが・・・

義満が生きたのは、南北朝動乱の時代。
悪党と呼ばれる私利私欲にまみれた武士が、秩序のない世界を作り上げていました。
誰もが自分の力で生きていかなければなりませんでした。

義満の時代は、鎌倉幕府が滅亡後・・・次の権力が生まれようとしていました。
天皇に権力を戻そうとする後醍醐天皇と、武家政権を建てようとする義満の祖父・足利尊氏が対立していました。
尊氏は、後醍醐天皇を京都から追い出し・・・後醍醐天皇は奈良に反幕府の南朝を、幕府側の尊氏は北朝(室町幕府)を開きました。
長引く内乱で・・・武家社会には、悪党・ばさら大名が出てき、私利私欲にまみれ・・・
悪党は裏切るのは当たり前、佐々木道誉・高師直ら、ばさら大名は天皇などの伝統を軽視していました。
そう、武家社会が根底から崩れ出していたのです。
その時代をまとめ上げた将軍・義満・・・それは、平坦な道ではありませんでした。
そんな義満の苦悩とは、どんなものだったのでしょうか?

yosimitu2.png

1373年12月、父・義詮が急死すると、室町幕府三代将軍へと就任します。
この時義満、11歳。幼い将軍は、盤石でない幕府を一身に背負うことになってしまいました。
最大の課題は、大名を支配下に置き、幕府の安泰を目指すこと。
当時大勢力の一つだったのが、山名一族。山陰を中心に11か国を治める大大名でした。

義満は、軍事力に勝る山名攻略の機会を虎視眈々と狙っていました。
チャンス到来は34歳の時、山名一族の内紛がおこります。
総領の地位をめぐって、本家と分家が対立したのです。
一族の内紛につけて、義満に近づいてきたのが・・・分家の山名満幸。
満幸は、本家が謀反を企てていると密告し・・・それを受けて義満は派兵、潰してしまいます。
しかし、義満は態度を一転。今度は分家の満幸に対して、荘園横領の疑いをかけ守護職を剥奪。満幸は激怒し、幕府に反旗を翻します。

義満は、この時を待っていました。
幕府軍は、満幸軍をわずか1日で壊滅。
幕府に勝っていた山名は、内紛を機に統率力を失っていたのです。
そして・・・山名の所領は、11か国から3か国に・・・
相手のすきをついての策略です。

このようにして、各地の大名を弱体化し・・・
その総仕上げが、南北朝合一だったのです。

嵯峨野・大覚寺にある正寝殿で、歴史的な南北朝合一がなされます。
これからは、北と南の天皇が交互に天皇につくと、決まるのです。
そして・・・動乱は鎮まるのでした。
武家の支配を固め、日本史上最大の内乱を一つにまとめあげたのが義満だったのです。

それは、どんな方法で???
鹿苑寺・金閣を中心に掌握した権力・・・その象徴でもありました。
第三層は禅宗様式、第二層は武家造、第一層は寝殿造・・・。
第一層を公家の寝殿造りに・・・
そこに義満の考えがありました。
公家の官位を欲し、次々と手にしていきます。
その昇進の速さは異例の者でした。
源頼朝のなった右近衛大将に21歳で、25歳で左大臣、26歳で皇后・皇太后に続く准三后に・・・37歳で武家では平清盛以来の太政大臣に駆け上がります。

公家でさえ稀のこの出世・・・その裏には北朝の重鎮公家・二条良基の姿がありました。トップに立つ摂関家、実力者です。
この良基おかげで、朝廷で華々しくデビューしたのでした。
マナーも、徹底的に教え込まれます。つつがなく儀礼をおこなうための摂関家。
一部の公家だけが守ってきたものを、良基の手ほどきによって教え込まれたのでした。

では、どうして協力してくれたのでしょう?
南北朝の戦いは、荘園からの年貢を激減させました。
北朝の後円融天皇が窮地に陥ります。財政の悪化から、祭祀儀礼も中止となり・・・その政権が危ぶまれます。
公家たちも仕事がなくなり・・・俸禄がもらえなくなっていました。
公家も朝廷もなくなってしまうかもしれない・・・
現在までで一番ピンチだったのが南北朝時代だそうで、朝廷を生き残らせるために・・・
このような危機に、義満が望んでいた官位・昇進させることで、財政的にもテコ入れしてもらいます。

1379年右近衛大将拝賀儀式。
義満は、天皇の前で見事な舞を披露。
さらに・・・二条良基の計らいで、天盃を与えられるという前代未聞の栄誉を受けるのです。
当時の公家は・・・それを苦々しく見ていました。


こうして義満は、清盛も頼朝も飛び越えて、摂関家に匹敵する立場になっていきます。
が・・・これは、二条良基の思惑を超え・・・
後円融天皇の立場が悪くなります。
公家たちの蚊帳の外にされ始めたのです。
そして。。。義満は、後円融天皇との女性問題を・・・心を痛め、病に伏せる天皇に追い打ちをかける義満・・・まだ6歳の御小松天皇を即位させ、自らが後見人となりました。
義満は・・・このようにスーパー権力者となっていくのでした。

では、武家も公家も抑えてスーパー権力者となった義満、どんな国づくりを目指していたのでしょうか?

そこで出てくるのは・・・日本国王問題です。
1368年、義満11歳の時に・・・元に変わって明が誕生しました。
そして、朝鮮や琉球に、朝貢(明皇帝への従属)を要求してきます。
しかし・・・日本は、国交を拒否します。
そこには、公家たちの“属国になどならない!!”という強い思いがありました。
さらに、明の皇帝・洪武帝が国交を結ぶのは、国家元首・・・。に限られていました。
義満が日明貿易を始めるためには、国王に認められる必要があったのです。
そして・・・第3代永楽帝の時に・・・義満が日本国王に認められます。

この行為が、天皇をないがしろにし、日本を明の属国とした・・・ということで、後世激しい非難を浴びることになるのですが・・・
天皇の臣下であるべきなのに、隣の国の王の臣下になるなんて・・・

しかし、義満は、遣唐使廃止以来およそ500年にわたって途絶えていた中国との正式な国家外交を再開し、日明貿易を始めます。

では、属国となってまでどうして・・・???
そこには、貿易利潤を独占しようとしていた狙いがあります。
義満が欲しがっていた永楽通宝は国際通宝。。。
これが、明との国交の狙いだったのです。

東アジア世界では、当時、武人国家から文人国家の転換期でもありました。

この莫大な富を・・・北山文化につぎ込みます。
花開いた北山文化は、唐物と呼ばれるものをはじめとする大陸伝来の品々でした。
特に陶磁器は、世界最高水準でした。
この芸術品を、こよなく愛したのです。


さらに・・・能楽を・・・観阿弥・世阿弥を発掘し、手厚く保護しました。
明との交易の結果、経済が発達し、新たな機運が来たのです。
明を取り入れることで、経済と文化の発達する時代に・・・義満が願った国の行く末でした。


そんな義満晩年の最大疑惑事件は・・・
それは、自分の妻を天皇の母とし、自らの子を皇位につかせようとした問題です。
1406年12月25日後小松天皇母・通陽門院厳子重体。
12月26日、義満は帝の母を見舞う。
「帝は即位されてから、すでに父君を亡くされている
 在位の間に二度も喪に服するのは不吉である」
当時、それは朝廷の習わしでした。
服喪は1年。その間、天皇は一切の政務から離れます。

差し迫った問題に対し・・・
側近の公家に・・・
「過去に帝に代理の母、准母を立ててさしあげれば、喪に服さなくてもよい先例がある
 誰を帝の母にするのが良いだろうか」

この時義満は、困ったことに、皇族にふさわしい女性がいないと言います。
公家は、義満は、自分の妻を准母にしたいのではないか?と、考えます。

妻が准母となれば、義満は天皇の父。その位は太上天皇です。
しかし、代理の母を、皇族以外から、ましてや武家からなどとは前代未聞。
それでも義満の近しい公家・一条経嗣は・・・
「恐れながら、義満様の妻君に皇族につぐ准三后の宣下を下され
 その後、帝の母・准母となされるのが良いでしょう
 すべては、義満様の大権によってご決断されるべきです」

朝廷の慣習に従って准母にすることを薦めました。

その後、御小松天皇の母が亡くなり、義満の妻が准母となることが決定されます。
義満は、自らは何も語っていませんが・・・。
しかし、太上天皇になれば、自分の子供を天皇にすることが出来る

一条経嗣は、義満の妻を准母としたことを後悔しています。
「自分の保身だけを考えて、なんと愚かな助言をしたものか
 ああ、悲しいかな 悲しいかな・・・」

ところが・・・2年後の1408年5月6日
足利義満死去。あまりの突然の死でした。

しかし、4代将軍義持は、義満にもらった太上法皇を朝廷に返上してしまいます。
動乱の時代をまとめ上げた足利義満。その死から60年後応仁の乱が始まり、京都は焼き尽くされ・・・再び動乱の時代が始まるのでした。

本人は、天皇家の乗っ取りなど考えていなかったのかもしれません。
アジアの変革期の中で、日本をどう繁栄させていくのか???
大胆かつベストな決断をした人物であることに間違いありません。


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