8月・・・武装勢力タリバンが政権を掌握したアフガニスタン・・・多くの人々が脱出を試み、空港に殺到しました。
そんな中、敢えてとどまる人々がいました。
国境なき医師団・・・紛争や災害で苦しむ人たちに無料で医療を提供するNGOです。
その名の通り、国境を越え、満足な設備のない辺境にまで素早く駆けつけます。
しかし、その道のりは平たんなものではありませんでした。
発足当初のメンバーは、わずか13人・・・
理想と現実の狭間で、葛藤しながらも戦い続ける国境なき医師団・・・!!

世界各地で、絶えることのない戦争や紛争・・・
国境なき医師団は、世界のおよそ90の国と地域で4万人のスタッフが、医療を無料で提供しています。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

「国境なき医師団」を見に行く [ いとう せいこう ]
価格:2035円(税込、送料無料) (2021/11/14時点)



1999年10月15日・・・国境なき医師団がノーベル平和賞を受賞しました。
そこでは医療だけでなく、もうひとつの取り組みが評価されました。
それは、声をあげる・・・!!
授賞式の会場で、代表者はこうスピーチしました。

「言葉で常に命が救えるわけではありませんが、沈黙は確かに人を殺すことがあります」

戦争や災害の現場で見た現実を、世界に訴えるという信念を持っています。
しかし、その告発が時には攻撃や非難の対象になります。
それでも声をやめることをやめない・・・!!

・創設に携わった若きフランス人医師たち。
彼等の中には、アフリカの紛争地を訪れて知った悲惨な状況を告発しようとするもそれを止められた苦い経験がありました。

フランス・パリ・・・1971年、国境なき医師団はこの地で生まれました。
医師ベルナール・クシュネール・・・
「当時、医師が自分の国を離れて活動することには大きな壁がありました
 私たちは、野心をもってその困難に立ち向かったのです」
クシュネールたちに賛同し、反骨精神にあふれた若者が集まってきました。
ロニー・ブローマンもその一人です。

「私は、人道支援は見せかけの幻想だと思っていました
 それで入団を申し込んだ時、一度落とされたんです」byロニー

ロマンチストからリアリストまで、若き医師たちが目指したものとは・・・??

1968年5月、パリは揺れていました。
教育改革を訴えた学生たちが、街頭で声をあげ、やがて資本主義体制そのものを批判する大規模なデモとなりました(五月革命)。
この運動の中に、当時29歳の若き医師ベルナール・クシュネールがいました。

「先進国に生れた私たちは、世界の大多数の人たちよりいい環境で暮らせています
 これは公平じゃない、是正する必要がある
 私は世界を平等にしたかったんです」byクシュネール

1970年、理想に燃えたクシュネールが活動の場として選んだのが、国際赤十字でした。
しかし、派遣されたアフリカで、すぐに現実を思い知らされます。
ナイジェリアでは当時、分離独立を主張する東部のビアフラと、政府との間で紛争が起きていました。(ビアフラ紛争1967~70)
政府は、ビアフラへの食糧の供給を遮断・・・人々は、想像を絶するような飢餓に襲われます。
子供たち全員が、飢餓状態に苦しんでいました。
栄養失調で次々と死んでいく姿を見守ることしかできなかったのです。
クシュネールは、この事実を世界に発信すべきと考えました。
しかし・・・中立な立場をとる赤十字は、現地の政治に一切干渉しないことを医師たちに求めていました。
クシュネールは、見たことを口外しないよう、誓約書まで描かされていました。
それを破り捨てれば、赤十字を追放されるかもしれない・・・!!

「私は誓いに背き、ビアフラの惨状を告発しました
 子供たちが死んでいくのを黙っていられませんでした
 現地に食料が入るよう封鎖を解くためには、国際社会への働きかけが必要だと思ったのです」byクシュネール

結局、赤十字をやめざるを得なくなりました。
医療で国際支援をするという夢を断たれ、先を見失った頃、パリで大学時代の友人と再会しました。

グザビエ・エマニュエリ・・・
医師としての地位や名誉を望まず、もっぱら厳しい環境で働く労働者の治療にあたっていました。

「私たちは、アウトサイダーとしてお互いを認め合い、政治についてもよく話し合ったものでした
 若かったので、意見がぶつかったが、殴り合って解決しましたよ」byエマニュエリ

2人は医師やジャーナリストの仲間を集め、13人で国境なき医師団を立ち上げました。
ひとつだけ、譲れないルールを決めていました。

「現地の様子を告発しなければ、改善されません
 私たちは、医療を行うだけでなく、”声をあげる”ことも誓ったのです」byクシュネール

しかし、活動をはじめたくても先立つ者がありませんでした。
当時、国際赤十字をはじめ、世界で活動する人道支援団体がいくつか既にありました。
しかし、その資金は、政府や国連から提供されるものがほとんどでした。
声をあげるためには、国連や政府に支援を頼るわけにはいかない・・・!!
エマニュエリたちは、一般から寄付金を集めることにしました。
しかし、そのノウハウがありませんでした。

「私たちはまるで物乞いのようでした
 100フランをもらうため、フランス中を講演して回りました
 本を書いたり、広告を出したり、あらゆる手段で寄付金集めに奔走しました」byエマニュエリ

なんとか集めた僅かな寄付金で、ようやく活動が始まりました。
その頃、最も力を入れたのが、カンボジアの支援でした。
当時、ポル・ポトが率いる政権は、カンボジア全土に恐怖政治を強いていました。
虐殺や、強制移住によって、100万人以上の命が奪われたと言われています。
多くの難民が生まれ、エマニュエリたちはカンボジアの隣のタイでその支援にあたります。
そこで目にしたのは、紛争地の過酷な現実でした。

「突然診療所で警報が鳴り、砲撃が始まりました
 砲弾の破片で多くの人々が負傷し、身体に大きな穴が開いた少女が運ばれてきました
 彼女を一目見て悟りました
 何もできない
 彼女を助けるのは無理だと・・・!!」byエマニュエリ

この頃、国境なき医師団に加わったのはロニー・ブローマン、当時27歳!!
やる気満々で、難民キャンプに乗り込みますが、予想もしなかった場面に直面します。

「医師団の体制が不十分だったため、資金が尽きてしまい、困ったことに食料も一切なくなりました
 すると、難民たちが食料を恵んでくれたんです
 こともあろうに、助けるはずの人たちに、逆に助けられる始末でした」byブローマン

当時の国境なき医師団を見てこう評した作家がいます。

「素人のロマンティスト」

「私たちは若かった
 何かができると思っていました
 しかし、しなければならないあらゆることが、出来なかったのです」byエマニュエリ

そんなエマニュエリたちに、一つの転機が訪れます。



1979年、カンボジアにベトナムが軍事介入!!
新政権は、タイとの国境を封鎖しました。
カンボジアで人権侵害があっても、国境の外からは全くわからず、何もできない・・・!!
タイにいたエマニュエリたちは、行動に出ます。
それは・・・

「我々は、国境までデモ行進します
 国境なき医師団としてカンボジアに入り、支援をしたいと伝えます」byエマニュエリ

1980年2月6日、カンボジアの国境付近でデモを決行・・・その名も、生存のための行進!!
反戦歌手として知られるジョーン・バエズに参加を呼びかけ、ジャーナリストたちにも声をかけました。

「カンボジア政府は、人道支援を妨害して言う事実を認めるべきだ!!」

世界の報道機関が、関心を寄せました。
アメリカやフランスの一流紙がこのデモを報じ、さらに日本でも・・・!!

「生存のための行進は、私たちの狙い通り、大いに注目されました
 おかげで多額の寄付金も集まりました
 あのデモから医師団の名が広く知られるようになったんです」byブローマン

活動資金が集まってきたことで、医師だけでなく、物資の輸送や診療所の設置を行う専門スタッフを整えられるようになりました。
さらに、広報に専念する人や、現地政府や支配勢力と交渉するためのスタッフも配置、医療支援は軌道に乗り始めます。
しかし、もうひとつの声をあげ告発するという活動の方は、各地で軋轢を生みました。

1984年、大飢饉にあえぐエチオピア・・・
国境なき医師団は、軍事政権による援助物資の横流しを告発!! 
すると、支援する団体の中から国境なき医師団だけが国外に追放されました。
メンバーが命を狙われることまで起き始めます。

「1980年代のアフガニスタンでは私たちを追い払うために病院が何度も爆撃を受けました。 
 シリア、イエメン、南スーダンでも、医師団を狙った爆撃がありました
 私たちが攻撃の標的になったことは創設以来何度もあったんです」byブローマン

国境なき医師団では、実に97人が活動中に命を落としています。
声をあげることは、時に命の危険をも伴う・・・
しかし、その声が、遂に世界を大きく動かしました。
それは、アフリカのルワンダ支援の時・・・1990年代初頭。
多数派のフツ族と少数派のツチ族が衝突しました。
国連は、PKO部隊などを現地に派遣し、平和維持にあたっていました。
そんなさ中、フツ族出身の大統領が搭乗した飛行機が撃墜されました。
怒りにかられたフツ族が、民兵を組織し、ツチ族を公然と殺害し始めました。
その犠牲者は、80万人以上ともいわれ、多くの人々が難民となり、国外に逃げました。
現地の国連部隊は、大量虐殺だと応援を要請しますが、国連本部は動きませんでした。
こうした間にも虐殺は続き、被害は拡大しました。

「ルワンダで私たちが見た暴力は、あまりに大規模でひどいものでした
 これがジェノサイド・・・大量虐殺であったことは私たちの目から見ても明らかでした」byブローマン

実は、医師団発祥の地フランス政府もまた虐殺から目を背けていました。
多数派のフツ族がしはいするルワンダ政府を長年支援してきたからです。

「なんとしても、この事実をフランスで告発し、ジェノサイドに終止符を打たなければならないと感じました」byブローマン

5月・・・ブローマンたちは、フランスの一流紙ル・モンドに広告を載せ、声をあげました。

”これは民族間の紛争ではありません
 徹底的、そして、計算された大量虐殺です
 フランス大統領と国際社会派、直ちに虐殺をやめさせ、ルワンダ国民を守り、虐殺の責任を追及すべきです”

「新聞広告は、ジェノサイドの事実を人々に知ってもらうことが目的でした
 これで虐殺を止める何かが起こるのではないかと期待したのです
 医者では大量虐殺を止められませんから」byブローマン

国境なき医師団は、創設以来初めて軍事介入を世界に訴えたのです。
その後、世界の報道機関もルワンダ虐殺阻止を訴え始めます。
ブローマンたちの告発から1か月後、遂に国連は部隊の追加派遣を決定!!
フランス政府も、軍事介入することを決めました。
紆余曲折を経ながらも、大量虐殺は収束していきました。

5年後・・・1999年10月15日。
思わぬ知らせが届きます。

「1999年のノーベル平和賞雄国境なき医師団に授与します」

受賞理由にはこうありました。

”大惨事に対して声をあげて、関心を集め、さらにその原因を指摘することによって、人権侵害や暴力に反対する世論を喚起している”

ひるまずに続けてきた声をあげる行動が、高い評価を得たのです。

「とてもうれしかった
 声をあげて殴られるよりも、ノーベル賞をもらえる方が、ずっといいね」byエマニュエリ

「声をあげるのは世の中に警鐘を鳴らし、真実を告発するためです
 こうした活動こそが、言ってみれば、国境なき医師団の神髄なのです」byブローマン

今も、国連や世界各地で告発を続ける国境なき医師団・・・

「病院を撃つな、医者を撃つな、患者を撃つな」byジョアンヌ・リュー



わずか13人から始まった活動は、世界に確かな足跡を残しています。

フランスの医師たちが始めた国境なき医師団・・・
その活動の輪は、今や世界38の国と地域に事務局を置くまでに広がっています。
創設から遅れること21年、日本でも事務局が設立されました。
しかし、参加する医師はほとんどおらず、寄付もなかなか集まりません。
そんな時、M7.3の大地震が日本を襲います。
阪神淡路大震災・・・国境なき医師団のメンバーは、いち早く駆けつけ、医療援助を行います。

・主婦・寺田朗子・・・日本での活動の礎を築いた主婦です。

今は、途上国の子供を支援する団体の代表を務める寺田朗子・・・
国境なき医師団に加わったのは、46歳の時・・・専業主婦でした。
以来、今に至るまでボランティアを続けること30年・・・半生を人道支援に捧げることになります。

「国境なき医師団に関わることが無かったら、この世界は知らないまま終わってたと思うので、私の人生を変えたものです」by寺田

30代までの寺田は、主婦として3人の子供を育てる忙しい毎日を過ごしていました。
しかし、末の子が高校生になると一度社会に出て何かをしたいと思い始めます。
大学時代の先輩から、一本の電話があったのは、ちょうどその頃でした。
あるフランス人にあってほしいという・・・
実は、寺田はフランス留学の経験がありました。

そのフランス人こそ、ドミニク・レギュイエ・・・国境なき医師団から来たという。
現在はパリにいるドミニク・・・日本にも事務局を作り、日本人の医師を医師団のメンバーにしたいと考えていました。

「日本人の人道援助に対する考え方は、欧米と同じだと思っていたので、楽観的に考えていました」byドミニク

ドミニクから通訳として手伝ってほしいと頼まれた寺田・・・
まったく知らない世界だったが、人助けになればと引き受けることに。
1992年日本事務局設立!!
寺田を入れて、4人でのスタートでした。
最初の仕事は、フランス語のニュースレターの翻訳でした。
そこで目にするNGOや人道援助と言った言葉は、当時の日本ではなじみのないものでした。
当時、ドミニクからよく聞かされた言葉があります。

「とにかくみんなが無関心でいることが、つらい人たちを増やすんだ
 そうならないように私たちが人さま方に知っていただくことをするんだ」

最初のニュースレターは、完成までに1カ月かかりました。
寺田たちは、早速この日本語のニュースレターを手に、活動を始めます。
ドミニクは、寄付金集めのために企業を訪ね歩き、寺田も度々同行しました。
しかし・・・反応は冷ややかなものでした。
一方、肝心の日本人医師の勧誘も、分厚い壁にぶつかっていました。
当時の国境なき医師団の海外派遣は、原則6カ月、手当は月10万円が精一杯でした。
東京の医師会で、参加を呼び掛けてみたものの・・・難しいものがありました。

「私たちは、まったく歓迎されませんでした。
 ある医師会の会長は、国境なき医師団のような組織が日本で活動できるとは全く思っていませんでした
 国際的な人道支援の意味は、日本ではまだ理解されていなかったのです」byドミニク

1年かけて、勧誘に回ったものの、応じてくれた医師や看護師はわずか3人・・・
国境なき医師団の活動は、日本では無理なのではないか??
寺田がそう感じていた矢先・・・
1995年1月17日・・・阪神淡路大震災が起きました。
震度7の揺れが、関西の大都市を直撃しました。
被害のあまりの大きさに、情報は錯そう・・・国も自治体も大混乱に陥りました。
その時、独自に動き始めたのがドミニクでした。

「日本で大変なことが起きていると感じました
 そして、何かをしようと思ったのです
 パリの事務局を通さず、自分たちの意思ですぐに動くことにしました」byドミニク

まず取り掛かったのが、支援物資を神戸に送ることでした。
しかし、道路は寸断され、被災地への物流は滞っていました。
スタッフ総動員・・・1日がかりで10トントラックと水・食料・毛布などを確保、なんとか神戸へ送り出しました。
震災直後は、支援が全くありませんでした。
そんなところに初めて届いた支援物資が国境なき医師団からのものでした。
ドミニクが、つてのあった避難所に送り届けたのです。

ドミニクはさらに、被災地支援の経験が豊富なエキスパートを日本に呼びました。
医師エルベ・イザンベール。
実際に神戸に入り、何をすべきか分析します。

「国境なし医師団の役割は、仲介することだと考えました。
 協力してくれる日本の医師や看護師を見つけ、現地の自治体と連絡を取りながら、必要なところに医師を派遣するのです」byイザンベール

当時の日本には、被災地にどんな医療支援をすべきか、十分なシステムが整ってはいませんでした。
イザンベールたちが考えたのは、各地にある避難所に医師を送り込む事・・・。

寺田のいる東京の事務局では、活動を通じて知り合った病院や医師と連絡を取り、被災地に行ける人を探しました。
その時、一人の医師から電話がありました。
阿竹茂・・・当時、筑波大学附属病院に勤務していました。
何かできないかと協力を申し出ます。
しかし、その為には、今の大学病院の仕事を休まなければならない・・・
阿竹は、教授の了解をなんとか取り付け、神戸へと向かいました。
2000人がいる神戸の避難所・・・そこに、医師は一人もいませんでした。
多くの被災者が、新札を求めてやってきました。
24時間体制で医療支援を行う阿竹の姿は、ニュースで報じられました。
その後、継続して医療支援を行うようになりました。
国境なき医師団の活躍が知られるにしたがって、医師や看護師からの支援の申し出も増えていきました。
その後、他の支援団体も神戸に診療所を作るなどして、医療が被災地に行き届いていきました。

阪神淡路大震災から3年後、ドミニクはフランスに帰国・・・
後任の日本事務局の会長に指名したのは、寺田でした。
寺田が会長だった7年の間に、日本事務局への寄付は10億円を超え、活動は世界に広がっていきました。
ノーベル平和賞の授賞式にも日本を代表して出席しました。

「無関心が人を殺す」byドミニク

日本での活動を広げた国境なき医師団・・・
今では、100名近い医師やスタッフが日本から世界各地に派遣されるようになりました。
しかし、皆、戦争や紛争とは縁のない日本育ち・・・
なぜ彼等は危険を冒してまで世界に向かうのか・・・??



・看護師・白川優子・・・紛争地と看護師・理想と現実の狭間で
白川がアフガニスタンに入ったのは、8月・・・タリバンが政権を握った直後でした。
白川は、アフガニスタン南部のとある町の病院で看護支援にあたりました。
都市の機能が麻痺する中で見たものは・・・??
これまで18回もの海外派遣を経験している白川。
ずっと憧れていた国際医療支援の現場には、想像をはるかに超えた現実がありました。
オーストラリアに留学し、2010年、国境なき医師団に入団します。
10年越しの夢を実現した白川・・・しかし、3度目の海外勤務・中東で現実を突き付けられます。
内戦状態にあったイエメン・・・
空爆に巻き込まれた人が、病院に運ばれてきました。

次の派遣先もまた、ない戦火の中東・・・シリアでした。
さらに過酷な体験をしていきます。
シリア政府と反政府勢力が激しく争う中で、多くの民間人が巻き添えになります。
日本人の女性ジャーナリストも命を落としました。
その後、イスラム過激派組織ISも内戦に加わり、外国人というだけで命を狙われるようになります。
白川は、反政府勢力が支配する地域で看護にあたっていました。
そこへ・・・!!
空爆!!白川のいた病院が狙われました。
それでも次々と運び込まれてくる患者たち・・・白川の中で、ある思いが芽生えていました。

紛争地で医療を施すことの限界・・・!!

思いつめた白川は、あれほど憧れていた医師団をやめようとまで考え始めます。
国境なき医師団の中に、ジレンマを抱える人は少なくありません。
理想と現実のギャップに苦しみ、医師団を去る人も多いといいます。
白川は、悩みながらもシリアで看護を続けました。
そんな時、ある少女と出会います。
空爆を受け負傷した17歳・・・
足の骨は砕かれ、自力で歩くことができなくなって絶望していました。
白川は、その少女に毎日寄り添い続けました。
それから1か月・・・任期を終え、日本に帰国することになった白川は、別れ際にこう伝えました。

「日本に帰ってからもあなたのことを忘れたくないし、一緒に写真を撮りたい」by白川

写真は笑顔でした。

その時たどり着いた想い・・・
「声をあげられない現地の人たちのために、私が目撃者として伝えなければならない」

2017年、帰国した白川は、記者会見を開き、声をあげました。
さらに、現地で見て、感じたことを書き始めました。
有名雑誌に寄稿し、紛争地での体験を一冊の本に記しました。

”紛争地の看護師”

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

紛争地の看護師 [ 白川 優子 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2021/11/14時点)



「現実を受け入れるには私たちはどの程度人間としての心を麻痺させなくてはならないのだろう」

そして今、白川は、国境なき医師団の活動を若い世代に伝えようとしています。
高校生を対象としたオンラインの講演会・・・500人近くが集まりました。
新型コロナの影響で、活動は限られる中でも声をあげ続けています。

悲惨な現実を変えるために声をあげる・・・!!
国境なき医師団の信念が、確かに受け継がれていました。

50年前、フランスの若い医師たちによって作られた国境なき医師団・・・
創設者のひとり、エマニュエリはこう例えました。

「人道援助は冒険である」

危険を冒してでも苦しむ人を助けたいという国境なき医師団の人生をかけた冒険・・・
今も世界中の紛争地や被災地で、多くの命を救い、同時に戦争の愚かさを告発し続けているのです。

彼等の向かうところに国境はない・・・世界の人々が、心の国境を越えて結ばれることを信じて・・・!!

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村