東京・日比谷公園で行われた国葬には、40万人が参列し、激動の時代をリードした稀代の政治家の死を悼んだのです。
「私の一生で、一番ありがたく思うのは言うまでもなく天皇陛下だが
その次はおかかである」
おかかとは・・・伊藤の妻・梅子の事です。
つまり、日本初の内閣総理大臣婦人・・・最初のファーストレディです。
明治という新たな時代で、日本の近代化を推し進めた伊藤博文が有難く思った妻・梅子とはどんな女性だったのでしょうか?
本州と九州を隔てる関門海峡に面した山口県下関市・・・
その中心街に鎮座する9世紀創建の亀山八幡宮は、天下人豊臣秀吉が、朝鮮出兵の戦勝祈願をしたことで知られています。
そして、その境内には、かつてお亀茶屋と呼ばれる茶屋がありました。
ここで、伊藤博文と梅子が劇的な出会いをします。
1865年、亀山八幡宮のお亀茶屋に、うら若き18歳の梅子の姿がありました。
貧しい町人の娘だった梅子は、家計を助けるためにお茶子として働いていたのです。
そんなある日のこと・・・一人の青年が息を切らして駆け込んできました。
追われていたのです。
梅子がとっさに指さしたのは、ゴミ溜め・・・男はためらうことなく、そのゴミ溜めに隠れました。
すると・・・
「男が来なかったか??」
「あっちに走っていきましたよ」
「もう大丈夫ですよ」
「助かった・・・恩に着る・・・」
そう言って男は、長州藩の伊藤春輔と名乗りました。
後の伊藤博文です。
どうして伊藤は命を狙われていたのでしょうか?
伊藤博文は、1841年、周防国・束荷村で生まれました。
生家は貧しい農家でしたが、14歳の時に父が長州藩に仕える足軽の身内になった事で、伊藤も足軽として召し抱えられました。
17歳で、吉田松陰の松下村塾に入門すると、過激な攘夷運動に身を投じていきます。
敵を知るために、23歳の時、盟友の井上聞多・・・後の井上馨らと共に、密航という形でイギリスへ留学。
しかし、ロンドンについた伊藤たちが目にしたのは、想像をはるかに超えた近代国家の姿でした。
「これでは勝ち目がない・・・」と悟った伊藤は、開国派に転じ、英語や西洋文化を懸命に学びます。
そして、帰国すると藩にも開国を勧め、馬関戦争ののちには、イギリスで身に着けた英語を駆使して講和会議の通訳を務めます。
さらに、松下村塾の先輩・高杉晋作らと共に、下関の開港を画策・・・これが、伊藤が命を狙われる原因になったのでは・・・??といわれています。
長州藩は、本藩と呼ばれる萩藩と、支藩と呼ばれる長府藩がありました。
その中で、下関の大部分が長府藩でした。
長府藩としては、本藩の高杉や伊藤が下関を開港しようとしたことに、怒ったのです。
すでに、四国に逃げていた高杉同様、伊藤も対馬に渡ろうとしていたのですが、長府藩士に見つかってしまい、逃げていたのです。
そんなこととはつゆ知らず伊藤を助けた梅子でしたが、事情を知った後も伊藤の身を案じ、隠れ家として知り合いの土蔵を紹介・・・
時折食事を届けるなど、何かと気にかけたといいます。
2人は、お互いに惹かれあうようになります。
しかし、時は、激動の幕末・・・!!
1865年7月、英語が話せる伊藤らを長崎に行かせ、イギリス人貿易商のグラバーから武器を買い付けることにしました。
それによって離れ離れになってしまいました。
8月下旬・・・伊藤が下関に戻ってくると、梅子の姿が茶屋から消えていたのです。
梅子は、下関の置屋ににいました。
父親の借金のかたとして身売りされ、小梅という名前で芸者見習いをしていたのです。
思いがけない事態に、伊藤は肩を落としました。
会って話がしたいと置屋に行っても、見習い中の梅子は稽古に忙しくそれすらなかなかかないません。
思い悩んだ末、伊藤は梅子を見受けすることを決意します。
お金を工面し、置屋の主人に伝えたところ・・・
「梅子を伊藤様の本妻にしていただけるのならば、嫁入り支度もして差し上げましょう
しかし、側妻ということであれば、せっかくですがお断りさせていただきます」
すると伊藤は、答えに窮してしまいました。
伊藤博文には、すでに奥さんがいました。
結婚していたのです。
松下村塾の先輩で、入江九一の妹のすみと、1863年に結婚していました。
すみは、伊藤の両親が伊藤の了承を得ずに迎えた妻でした。
当時、伊藤は江戸やイギリスなどに行っていて、実家に帰れず、すみとはほとんど顔も合わせていなかったのです。
伊藤の母・琴子は、すみを大変かわいがっていました。
母の期待を裏切るわけにはいかなかったのです。
とはいえ、梅子に対する思いは断ち切れず、すみとの離婚を決意します。
長州藩の実力者であった木戸孝允に、母親の説得を頼み、梅子を見受けします。
そして梅子は、伊藤とすみの離婚がまとまるまでの間、商家に預けられましたが・・・
そこで、伊藤からお願いされます。
「文が出せんから、字を覚えてくれよ」
貧しい家で育った梅子は、幼いころに手習いをさせてもらえず、読み書きがほとんどできませんでした。
藩の仕事で各地を飛び回る伊藤は、その先々から梅子と文のやり取りをするため、読み書きの勉強をさせたのです。
最初、伊藤は、仮名文字を使っていましたが・・・だんだん漢字で書くようになります。
猛勉強によって、難しい漢字も読み書きできるようになっていきます。
後に梅子は伊藤の代筆までできるようになりました。
1866年4月に結婚。
梅子は晴れて伊藤の妻となりました。
そして、下関で二人の新婚生活が始まりました。
英語の話せる伊藤は、長州藩の仕事で大忙し・・・
結婚した年の7月には、長崎でイギリス人貿易商のグラバーから蒸気船を購入。
さらに、翌月には別の蒸気船購入のために上海に渡ってしまいます。
この時、梅子19歳・・・
一人寂しく留守を守っていたわけではありません。
伊藤の知り合いの長州藩士たちが、宿屋代わりとしてひっきりなしに泊りに来ていました。
新婚の梅子にとっては知らない人ばかり・・・
しかし、宿の女将のように藩士たちをもてなしました。
梅子は「不逞の輩が家に来ても、自分が追い払う」といつも伊藤に言っていました。
結婚した年の12月、長女・貞子を出産・・・
しかし、伊藤はなかなか家に帰ってきませんでした。
新たな日本を作るため、江戸幕府を倒すために、各地を飛び回って暗躍していました。
伊藤は、京都の偵察に向かう際、白い粉を包み「これを着物の襟に縫い込んでくれ」と梅子に頼みました。
白い粉は、致死量のモルヒネでした。
当時の京都は、新選組が長州藩などの志士たちを血眼になって探していたため、捕まった時にこれを飲んで自決する覚悟だったのです。
梅子は、そんな伊藤の覚悟を黙って受け入れ、白い粉の包みを襟に縫い込んだといいます。
命を懸けて日本を変えようとしている夫を、私が支えるのだ・・・!!
1867年10月14日、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還し、250年続いた江戸時代が終焉・・・
それと共に、伊藤梅子の人生も大きく変わりだしました。
大政奉還の翌年、住み慣れた下関から神戸に・・・。
博文と名を改めた夫が、廃藩置県まえに県となった初代兵庫県知事に任命されたためでした。
明治時代の神戸は、外国人の来る大切な土地でした。
それに相応しい人物・・・英語のしゃべれる伊藤の大抜擢でした。
しかも、当時の県知事は5万石以下の大名と同格の扱いで、農民出身の伊藤にとっては大出世でした。
支えてきた梅子の苦労も報われました。
まもなく次女・生子も誕生・・・順風満帆でした。
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翌年の1869年8月・・・長女・貞子が病死・・・
しかし、深い悲しみに暮れる梅子の側に夫の姿はありませんでした。
この時、新政府の大蔵少輔に昇進して東京にいたのです。
多忙のため、訃報を聞いてもすぐに神戸には戻ることができませんでした。
その後、梅子は生子を連れて東京に移り、伊藤と共に暮らしていましたが・・・
今度は伊藤が、欧米使節団に選ばれて、日本を離れてしまいました。
また留守番・・・
しかし、梅子には大仕事が残っていました。
一人故郷の山口に戻り、伊藤の盟友である井上馨の兄の長男・勇吉(2歳)を伊藤家に引き取ったのです。
親代わりとなっていた勇吉の祖母が無くなる間際に梅子に勇吉を託したためでした。
周囲の人々も、梅子の器量を認めていたのです。
海の向こうで勇吉を受け取ることを知った伊藤は、梅子に手紙を送っています。
「そなたの子としてお生同様に何も隔てなく育ててください」
その言葉通り、梅子に大切に育てられた勇吉は、後に博邦と改名し、伊藤の立派な後継者となりました。
1年9か月に及ぶ視察を終えて、日本に帰国した伊藤は、貨幣制度の導入、鉄道の建設・・・日本の近代化を推し進める政策を次々と実施します。
それらの功績が評価され、1878年、内務卿に就任します。
政治のTOPに立った伊藤が、外務卿の井上馨と共に力を注いだのが欧化政策でした。
開国の際に、欧米諸国と結んだ不平等条約・・・改正するためには、日本が西洋に負けない文明国になる必要があると考えたのです。
その欧化政策の象徴と言われたのが、1883年、日比谷に建てられた鹿鳴館です。
ここに、欧米の要人たちを招き、華やかな舞踏会を開催して日本の近代化をアピールしようとしたのです。
要人たちをもてなすのは、政府高官の妻や娘たちの仕事でした。
梅子もその一人でしたが・・・当時は、慣れない西洋文化に戸惑うばかり・・・。
梅子たちは、西洋人たちの嘲笑の的になってしまいます。
笑い者にはなりたくないと、誰もが舞踏会への参加をしり込みする中、一人気を吐いたのが梅子でした。
梅子は、英語の猛勉強を開始しました。
目が悪くなりながらも、英語で手紙が書けるまでになります。
そして、もうひとつ梅子が取り組んだのが社交ダンスです。
婦人たちを説得して、70人も引っ張り出し、大苦戦しながらも夫たちのため、日本のために練習に励みました。
梅子は子供たちに常々こう言っていました。
「人間、これが大事と思うう時には、真剣にやらなければなりません」
何事にも真剣に取り組み、社交界の華として鹿鳴館外交の一端を担った梅子に思いがけない依頼が舞い込みます。
当時、宮中で働く女官たちはまだ和装のままでした。
洋装を取り入れることになると、その制作を貴族出身でもない梅子が任命されます。
鹿鳴館で海外の貴賓を見てきたことからの抜擢でした。
梅子は、試行錯誤を繰り返し、女官たちの服を作り上げるのです。
日本政府の欧化政策には、梅子をはじめとした女性たちの奮闘が欠かせませんでした。
1885年12月、欧米諸国に習い、日本に内閣制度が発足。
初代内閣総理大臣に任命されたのが、梅子の夫・伊藤博文でした。
これによって、梅子は日本初のファーストレディに・・・
国家の顔・・・梅子は常に身だしなみを整え、首相官邸にやってくる欧米諸国の要人たちと流暢な英語で会話をし、日本人らしい心配りで人々を感心させたといいます。
こうした内助の功から、梅子は”賢夫人”と呼ばれるようになりました。
この頃、梅子の英語の家庭教師をしていたのが後に津田塾大学を創設する津田梅子・・・
津田は、アメリカの友人に向けた手紙の中で、母としての伊藤梅子をほめています。
「伊藤夫人は、子供に対してとても良い母親で、子供たち母親の言うことをよく聞き素直です」
ところが・・・
津田梅子の手紙にはこんな続きがあります。
「父の過ちや不道徳があっても問題ありません」と。
梅子の夫・伊藤博文には、過ちや不道徳があったというのですが・・・??
伊藤は、衣食住には興味がなく、金銭にも無頓着で、好きなものといえば、酒とたばこ・・・
そして、何よりご執心だったのが、女性でした。
特に芸者が大好きで、行く先々で手を出して、全く隠そうとはしませんでした。
芸者と芝居小屋に行った際には、芝居そっちのけでいちゃついていたため、役者から怒鳴りつけられたこともあったとか・・・。
新聞にも格好の餌食にされ、”明治好色一代男”といわれ、掃いて捨てるほど浮気相手がいたため箒というあだ名までつけられました。
遂には、見かねた明治天皇から・・・
「少しつつしんだらどうか」と苦言を呈される始末・・・
しかし、伊藤は開き直ってこう言ったといいます。
「とやかく申す連中の中には、密かに囲い者などを置いている者もいますが、私は公に許された芸者と遊んでいるだけです」
公然と芸者遊びをする伊藤は、浮気相手を自宅にまで呼んでいたようです。
しかし、梅子はそんな夫に腹を立てることなく、芸者に対し、「ようこそいらっしゃいました」と笑顔で出迎え、芸者の食事や着替えまで用意してやり、時には悩みまで聞いてやり、母親が病気だと聞くと伊藤に早く返してあげるように頼んだといいます。
しかし、伊藤は優しく、自分にとっての一番の女性は梅子以外の何物でもないと細やかでした。
夫の浮気に対して寛容だった梅子でしたが、すべてを許したわけではありませんでした。
それは伊藤が住み込みで働いていた若い女中に子供を産ませた時の事・・・
「あの子の人生を台無しにするおつもりですか!?」
女遊びにも、最低限のルールがあると、烈火のごとく怒りました。
梅子は伊藤が女中に産ませた子供を引き取って、自分の子供と一緒に育てました。
伊藤としては頭の上がらない大きな女性でした。
夫を寛容な心で許し、何があっても支え続けてきた梅子には、意外な趣味がありました。
花札です。
夫の伊藤は、かけ事を好まなかったので、花札が大嫌い・・・
そこで、梅子は、伊藤が寝た後、近所に住んでいた西園寺公望や井上毅などを家に呼んでは花札に興じていたといいます。
時には、目を覚ました伊藤に見つかってしまい、怒られることもあったようです。
それでも梅子は、終生、花札をやめませんでした。
梅子なりのストレス解消法だったのかもしれません。
伊藤梅子と夫・博文の間に生まれた子供は、3人だったと言われていますが、成人したのは生子一人でした。
しかし、用事の博邦や、伊藤が他の女性に産ませた子供も引き取って育てていたため、40代の梅子は多くの子供や孫たちに囲まれて育ちました。
そんな中、1894年日清戦争勃発!!
1万3000人以上の犠牲を出しながらも、清国に勝利した日本は、台湾と遼東半島を手に入れます。
国民は大いに歓喜し、二度目の総理大臣を務めていた伊藤の人気も高まります。
しかし・・・その翌年、日本のやり方を快く思わないロシア・ドイツ・フランスが遼東半島の返還を要求します。
伊藤はこれを承諾し、遼東半島を返還しましたが、日清戦争の勝利に酔いしれていた国民は、これを弱腰外交とし、伊藤を裏切り者とする者まで現れました。
伊藤が三国干渉を受け入れたのは、これを拒否すれば西洋列強の三国と戦争になると判断してのことでしたが・・・
苦渋の決断をしたその思いを、伊藤は梅子に手紙で打ち明けています。
「再び戦を始めて、数万の人を殺すよりも、土地を返還した方がよい
わからず屋が喧しく騒ぐだろうが、儂は日本のためにこうしたのだ」
伊藤の心のよりどころとなっていた梅子・・・伊藤もまたそんな梅子を気遣い、普段は金品の贈答を嫌って何を送られても受け取ろうとしませんでしたが、梅子が盆栽いじりを趣味にするようになると、「妻が喜ぶから・・・」と、盆栽だけは受け取ったといいます。
その後、伊藤は・・・
1898年第3次伊藤内閣発足
1900年第4次伊藤内閣発足
1905年12月、韓国統監府の初代統監に就任します。
当時、日本は韓国を実質的な支配下に置いていて、韓国統監府はその統治機関として漢城にありました。
当然現地の反日感情は強く、伊藤は死を覚悟して韓国渡り、教育の振興や宮中の改革など統治政策に尽力していきます。
これまで明治政府の樹立、大日本帝国憲法の制定、内閣制度の確立、初代韓国統監に就任・・・
日本という国を背負い大役を果たしてきた伊藤・・・その激動の時を、陰に日向に共に生きてきた梅子でしたが、すでに還暦を過ぎていました。
韓国統監を退いても、海を渡る伊藤を見送らなければなりませんでした。
1909年10月26日、伊藤は満州のハルビンに到着します。
ここで、ロシアの大蔵大臣と会談し、満州や韓国についての日本の方針を説明する予定でした。
しかし、伊藤がハルビン駅のホームで出迎えを受けていると・・・
3発の銃弾が伊藤を襲ったのです。
撃ったのは、日本の韓国支配に反対する韓国人独立運動家・・・
伊藤は撃たれた後も、意識はありましたが手当の甲斐なく死亡・・・69歳でした。
梅子のもとに、夫の死を知らせる電報が届いたのは、それから間もなくのことでした。
一瞬狼狽したものの、梅子の目から涙がこぼれることはありませんでした。
どうして・・・??
伊藤はかねてから梅子に言っていました。
「自分は畳の上では
満足な死に方はできぬ
敷居を跨いだ時から、これが永遠の別れになると思ってくれ」
2人が出会った時も、伊藤は命を狙われていました。
それからも、常に危険と隣り合わせ・・・
夫が家を出るたびに、これが今生の別れになるかもしれないと言い聞かせてきました。
その覚悟があったからこそ、夫との突然の別れに涙を流さなかったのです。
しかし、梅子は伊藤が無くなったその日、こんな歌を詠んでいます。
国のため
光をそえて
行きましし
君とし思へど
悲しかりけり
梅子は心の中で泣いていたのです。
その後、梅子は伊藤と離れていた滄浪閣を離れ、娘である生子の嫁ぎ先に移り住み、1924年4月12日、多くの家族に見守られながら77歳で亡くなりました。
激動の時代を駆け抜け、近代日本を作った伊藤博文を支えてきた日本初のファーストレディ・伊藤梅子・・・
「私の一生で、一番ありがたく思うのは言うまでもなく天皇陛下だが
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