1972年、奈良県明日香村が突然人でごった返しました。
お目当てのものとは、古墳の石室の中から発見された1300年前の壁画でした。
国宝「高松塚古墳壁画」
鮮やかな極彩色豊かな壁画の登場は、日本考古学史上最大の発見とも言われました。
特に注目を集めたのが、4人の女性像・・・描かれた時代から”飛鳥美人”と呼ばれました。
日本中で古代史ブームが生まれました。
寄付金切手は爆発的に売れ、寄付金は6億円以上!!

しかし、30年後、飛鳥美人は思わぬ展開を迎えます。
貴重な壁画は文化庁が厳重に管理しているはずでした。
ところが・・・管理ミスが発覚、カビが大量に発生し、無残な姿に変わり果てていたのです。
壁画は、石室をあけた瞬間から劣化のスピードを速めていました。
今のままでは貴重な文化財が失われてしまう・・・
壁画の保存を巡って、暴くべきではなかった、壁画をすぐに修復すべき、永久に密封すべき・・・大論争が起きました。



運命の分岐点は、1972年3月21日・・・壁画が発見された日でした。
当時高松塚古墳は、考古学者から見向きもされない古墳でした。
世紀の発見のきっかけをつくったのは、故郷の歴史を愛する名もなき男たちでした。

①発見のきっかけをつくった村民・関武
”飛鳥美人”発見に秘められた村民の悲願
1970年代初め、日本は高度経済成長の真っただ中にありました。
いたるところで山は削られ、ニュータウンが次々と生まれました。
都市化の波は、静かな農村だった明日香村にも迫っていました。
この地は1300年以上前、日本の都があった歴史的な場所・・・ロマンあふれる遺跡が存在し、掘れば何か出てくるとまで言われていました。
当時、関は気が気ではありませんでした。

「開発されたらみな、パー
 まだ、(遺跡が)眠っている、至る所にある
 ユンボ来てバーっとやったら、甲斐アhつは無鉄砲に行くから・・・」

丁度この頃、関は村のある場所で飛鳥時代の遺物を見つけたばかりでした。
”三尊仏のかけら”でした。
当時、関は会社の経営者でしたが、遺跡保存のために仲間と飛鳥古京顕彰会を結成。
文化財を見つけ出し、自分たちで守ると声をあげ始めました。
関には、真っ先に調査したい場所がありました。
それが高松塚古墳でした。
生い茂る竹やぶに分け入ると、小さな穴があり、中に不思議なものがあったのです。
凝灰石の切石です。
石室??
誰も調査していない石室があるかもしれない・・・
しかし、関の直感だけでは前へ進めませんでした。
一方、村民の中には、遺跡の保存よりも開発を望む者もいました。
当時政府は、ことの保存のため、開発を規制。
このままでは村は不便なまま取り残されてしまう・・・
保存か、開発か・・・村も揺れていました。

関同様立ち上がったのが、福井清康です。
明日香村村民が、村の将来とか、史跡保存に対して無関心過ぎました。
関心を持ってほしかったのです。
会社員で青年団のリーダーで・・・開発を望む村民と話し合います。
解決案を探し続けます。
その福井の話を熱心に聞いていたのが、大阪で鍼灸を生業としていた御井敬三です。
それが、思わぬ男を引き寄せます。
御井に針を打ってもらっていた松下幸之助です。
飛鳥を守りたいという御井の思いに共感します。
経営の神様とまで言われた松下でしたが、経済的に豊かになることだけが復興ではないと考えていました。
松下は、政府に働きかける行動をはじめます。
その相手は、時の内閣総理大臣・佐藤栄作でした。
窮状を訴える村民の声は、ついに国のTOPにまで届けられました。
このまま放置すれば、近代化の浸食を受け、価値が消滅してしまう・・・
日本の故郷を守るためには、村民の生活保障を含めた建設的処置が必要だ・・・
村の発展を望む開発派の意見も含まれていました。

1970年6月29日、明日香村甘樫丘に現れたのは、佐藤栄作でした。
「地域住民の方々が、せっかくこいうふうに維持してこられた
 このお気持にも沿うためにも、民族の心、これを保存して後世に伝える」by佐藤栄作

そこで政府が、打ち出したのが、史跡を生かした観光開発でした。
文化財を守りつつ、村が活気づくように支援することでした。
松下が理事長となり「飛鳥保存財団」を設立。
経済的に支えることになりました。
観光客を呼び込むために飛鳥駅周辺の整備が始まります。
この絶好の機会に動き出したのが、関でした。
駅の近くには、あの高松塚古墳がありました。
関は、新たな石室が見つかれば話題となり、観光資源になると村役場を説得します。



1972年3月2日、発掘調査開始。
関が村を説得し、なんとか50万円の発掘費用を捻出しました。
調査は、関の中学時代の恩師に依頼・・・関西大学の考古学者・網干善教でした。
網干は50万年では足りないと、人手として教え子たちを招集。
学生たちは、春休み返上で1カ月間タダ働きをすることになります。
その学生たちを助けたのは、村民でした。

既に見つかっていた切石を頼りに掘り進めること2週間・・・
3月19日、ついに石室が見つかりました。
3月21日・・・村役場に男が駆け込んでいました。
発掘現場にいた網干です。
関たちが石室にとうゃくすると、そこには盗掘者が明けたという穴がありました。
中をのぞき込んだ関の目に飛び込んできたのは・・・驚きの後継でした。
それは、飛鳥時代に描かれたと思われる壁画でした。
白虎、青龍といった方位を司る神獣・・・
そしてなにより、色鮮やかな人物画・・・誰一人想像していないものでした。
天井までの高さ1.13m、幅1.03m、奥行き2.65m。
この空間から、被葬者の骨や銅鏡などが見つかりました。
ただ・・・誰の墓なのかは特定されていません。
まさか・・・日本で人物像の壁画が発見されるとは・・・極彩色のお宝を、一目見ようと全国から人が殺到しました。
松下の財団は、駅前に飛鳥総合案内所を解説。
飛鳥美人をを目玉に観光客を呼び込むことにしました。
さらに、遺跡としては初となる寄付金付き記念切手が発売。
爆発的な人気を博し、6億円以上の寄付金を集めました。
その資金をもとに、古墳周辺の土地を買収。
史跡公園が整備されることに・・・
明日香村には、全国から観光客が訪れるようになり、村は活気に溢れました。
ついには、新しい法律ができました。

1980年明日香法・・・明日香村の貴重な歴史的風土を保存するとともに、地域振興も目指す

日本の文化財保護の在り方に、大きな影響を与えました。
1300年の眠りから覚めた飛鳥美人・・・発見した時の興奮は、生涯の宝物となりました。

高松塚古墳壁画模写・・・原寸大の作品があります。
日本画家たちの手で、汚れや壁の剥落までもが正確に描かれました。
発見直後の壁画の様子が、忠実に再現されています。
画家たちを取り仕切ったのが、日本画家・平山郁夫です。
後に、シルクロードを舞台に多くの傑作を残した日本画家の巨匠です。
当時は新進気鋭の画家で大抜擢でした。

「写真は形は写りますけど、質感その他が違いますので
 芸術性という意味では書かないといけない」

平山は、写真では表現できない芸術性を追い求め、格闘することとなります。



②芸術性を追い求めた画家の奮闘
そもそも、本物があるのにどうして模写することになったのか??
高松塚古墳の石室は、発見後まもなく壁画の劣化を防ぐために封印されました。
国が厳重に管理し非公開。
誰も実物が見られなくなっていたのです。

1973年10月・・・8人の画家がやってきました。
模写の総監修は、画壇の頂点に立つ前田青邨・・・平山の師匠でした。
画家たちは、防護服に着替え、封印が解かれた石室へ・・・
しかし、壁画を保存するには、95%の湿度と、14℃の低温の維持が欠かせませんでした。
細心の注意が払われましたが・・・すべて手探りでした。
平山たちは、交代で狭い入り口から中に入り、自分が模写する部分を必死に見つめます。
ひとりに許された時間は、およそ30分・・・
本物の飛鳥美人を見た平山は・・・

「1300年間ほとんど人目に触れないで、描かれたまま、うぶな状態では行っている・・・
 目垢がついていない、新しい」

興奮していました。

平山は、この出会いに運命のようなものを感じていました。
平山が4年前に書いた作品「卑弥呼壙壁幻想」
平山は、ヤマトの古墳には壁画はないという当時の定説を疑い、卑弥呼の墓になら美しい壁画があるのでは??と想像しました。
そんな矢先に、予想していたような壁画が発見されたのです。

「1300年の眠りから覚め、まるで私に見つけてくれと言っているようだ」by平山郁夫

そんな運命的な絵の模写に、力が入ります。
前田青邨監修のもと、7人の画家たちが手分けして行いました。
飛鳥美人を担当したのは平山でした。
大切にしたのは、本物を見たとき湧き上がってきた思いでした。

「繊細に・・・日本人の感性で描いた
 顔の表情とか、髪の・・・襟元・・・線画は慎ましやか・・・」

飛鳥時代の絵師の技に向き合い、平山たちは日本の美の源流ともいえる芸術性を余すところなく伝えようと格闘します。
まず、苦労したのは、石室の壁の質感や凹凸、傷の具合までも表現することでした。
そこでとられた方法が、粘土状の絵具・胡粉で小さな点を置き、少しずつ厚みをつけていくことでした。
苦労したのは、画家本人の個性を出さないこと、そして、色彩でした。
色彩は単純でしたが、1300年の間に時代色がついて、非常に複雑な色になっていました。
壁画は、日本画と同じ岩絵具などで描かれていましたが、1300年という時の流れと共に、微妙に変色していました。
平山たちは、丹念に描き分け、時の経過までをも絵の美しさとして表現しようとしました。
7か月後・・・ようやく完成しました。
壁画と同じような質感と迫真性・・・悠久の時を感じさせる深みのある色でした。
発見直後の美しい姿がそこにはありました。
絵は全国各地を回り、国宝の美しさを本物さながらに伝え、大好評を博しました。

このことは、平山の人生に大きな影響を与えました。
文化財全体の保存ということに関わっていくのです。
実際その後の平山は、世界各国で危機に瀕する文化財の保護に深くかかわることになります。
内戦が続くアフガニスタンで貴重な石仏が破壊された時にも、抗議の思いを込めた絵を発表し、世論に大きな影響を与えました。
平山たちが古墳の中で実物の飛鳥美人を見た後、石室は再び封印されました。



1976年10月、高松塚壁画館オープン。
そこには、平山たちが手掛けたもう一つの模写が飾られています。
古墳が訪れた人が、いつでも見られるようにと、平山と今井が新たに制作したものです。
飛鳥美人の美しさを今に伝えています。

誰もが飛鳥美人は古墳の中で静かな眠りについていると思っていました。
ところが、封印から30年後、衝撃的な事実が判明します。
壁画にはカビが生えるなど発見当時の美しさは衰えるばかり・・・
早急に手を打たなければなりませんでした。
消失の危機に立たされた飛鳥美人の命運を託されたのは、意外な人物でした。

③国宝を救え!人生をかけて挑んだ石室解体
飛鳥美人の命運を託された石工・・・左野勝司
石室を解体し、特別な修復室に壁画を移すことになったのです。
劣化が著しい壁画をどのように破損することなく運び出したのか・・・??
古代の石造物に詳しい異色の石工・・・左野勝司。
左野は古の人々がどうやって巨大な石を運んだのかを検証。
石造文化財の修理、復元に携わってきた第一人者でした。
飛鳥美人のピンチに一肌脱ぐことになりました。

「石というのがどれほど大事であり、どれほど愛着を持っているか、我々が一番よく知っている」by左野

2002年、文化庁は、発見から30年を機に高精細なカメラで改めて壁画を撮影しました。
そして、今も残る美しい姿として公表しました。
しかし・・・この写真を見た発見当時の関係者から、声が上がったのです。

「壁画が劣化している」

よく見ると、表面にカビが増殖していました。
白虎は黒ずみほとんど見えなくなっていました。
さらに、2006年、作業員がカビの除去中に壁画に傷をつけたにもかかわらず、公表しなかったことが発覚しました。
国民の非難にさらされました。
批判の矛先は、古墳の発掘に関わった人にも向けられました。
「そもそも石室を開けるべきではなかった」と。
早急な対応が求められました。
しかし、石室はあまりにせまく、修復しようにも極めて困難な状況でした。
文化庁は、保存対策検討会を設置。
解決策が議論される中で、人が2度とは要らぬよう永久に密封すべきだという極端な意見まで出ました。

議論の果てに、検討会は驚きの作を決断しました。
壁画が描かれた石室を解体、16個の石を取り出して修復するというものでした。
失敗すれば、国宝を破損しかねない・・・!!
もうひとつ大きな問題がありました。
壁のしっくいはボロボロで、今にもはがれそうな状態で、亀裂も入っていました。
命運を託されたのが、石工の左野でした。
左野には藤ノ木古墳で石棺のふたを無傷で開けたという実績がありました。
石造文化財に精通する人物として白羽の矢が立ったのです。
しかし、熟練の左野でも躊躇した高松塚の石室は凝灰岩で出来ている故の弱点があったのです。
もろい・・・一歩間違えば国宝は木っ端みじんでした。
しかし、無下に断ることはできない・・・!!
背中を押したのは、石工としての矜持でした。

「僕が一番腹が立ったのは・・・絵だけ国宝で石は関係ないですとなったので、頭に来ました」

挑戦しないと仕方がない・・・!!
左野は、石を運び出す驚きのアイデアを伝えます。
左野はクレーン会社と共同で、特殊な道具を開発します。
その名もオクトパス!!
タコの吸盤のような丸いゴムで、挟む力は一つ一つ微妙に調整できるように設計しました。
しかし、石室を形作る石の大きさはバラバラで、重いものは1.5tもありました。
どうしたら、安全に持ち上げられるのか??
左野は石室と同じ凝灰岩でレプリカを作りました。
そして、本物通りの亀裂まで作って実証実験を繰り返しました。
オクトパスは見事に機能し、持ち上げられることを証明しました。
さらに、16個の石の形に応じた専門のオクトパスを開発、1年間テストが続けられました。
加減はそれまで培ってきた職人の感がたよりでした。

2007年4月5日・・・ついに本番の日。
現場にはマスコミが殺到。
当時、文化庁が作業員の負担になると考え、公開は限定的にする予定でした。
しかし、佐野が反対・・・どんなことがあっても作業は隠さず見せるべきだ・・・!!

「みられているからこそしっかりできる」

日本中が注目する中、一つ目の石の解体が始まります。
石は、見事に積み上げられ、無傷で修理施設にはこばれました。
ひとつの石ごとに1週間の準備期間をかけ、慎重に解体していきます。
5月10日・・・遂に、飛鳥美人が描かれた石に取り掛かります。
しかし、隣の石と密着しているため両側から挟むことはできない・・・
当初左野は、石の隙間に鉄の爪を差し込み持ち上げるつもりでした。
その時・・・貴重な絵がはがれないよう特殊な紙で上から押さえます。
ところが・・・問題発覚!!

掴むところがない!!
なんと、コロで動かす!!

40㎝、隣の石と離すことができました。
見事に飛鳥美人を持ち上げることに成功します。
その直後、最大のトラブルが襲います。
ワイヤーがずれたのです。
幸い、飛鳥美人は無事でした。
4カ月半がかりで、16個の石すべてが修理施設にはこばれました。
研究者の手によって、慎重にカビの除去が進められることになりました。
2020年3月、10年以上の歳月をかけ、壁画の修理がようやく完了しました。
発見から長い間封印されてきた飛鳥美人・・・
今では本物を間近で見られるようになりました。

今は元に戻すことができない・・・壁画が崩れる恐れがあるからです。
保存をめぐる戦いは、終わっていません。

失敗が許されない大プロジェクトを、成功に導いたものは何だったのでしょうか??

日本の国宝を守るんだという責任感と、物の重要さを認識し、一丸となってやること・・・

半世紀前、人々に驚きと感動を与えた飛鳥美人。
時に騒動を巻き起こし、人を翻弄してきました。
しかし、その美しさを目の当りにできたからこそ、人々は情熱を掻き立てられ、壁画を守るために必死に奮闘してきたのです。
貴重な文化財を、私たちの未来や世界に、どうつないでいくのか・・・飛鳥美人をめぐる問いに終わりはありません。

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