歴史通の間で評価が高いのは、浪人まで身を落としながらも大名に返り咲いた復活の名将・立花宗茂です。
・二人の父
復活の名将・立花宗茂に大きな影響を与えたと言われているのが、高橋紹運と、戸次鑑連(立花道雪)です。
共に、北九州の大部分を支配していた戦国大名・大友宗麟を支えた重臣でした。
どうして宗茂は二人の父を持つことになったのでしょうか?
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1567年、立花宗茂は、豊後国に生れます。
幼名は千熊丸・・・そこから何度も名を改め、宗茂と名乗るようになったのは40歳を超えてからのことでした。
その宗茂の実の父が高橋紹運です。
高橋紹運は、知略を以て知られた人物で、大友宗麟からも信任の厚い人でした。
そして、最後まで主家である大友家を支えた忠義の人物として知られています。
1581年、15歳になった宗茂は、大友氏に反旗を翻した秋月勢の討伐戦に参加します。
敵将のひとりを討ち取るなど、勝利に貢献したといいます。
これが宗茂の初陣ともいわれ、益荒男ぶりを遺憾なく発揮していました。
高橋紹運と双璧をなす大友家の重臣・立花道雪が、紹運に・・・
「そなたの子をわしにくれぬか」と、申し出ます。
男子がおらず、既に還暦を過ぎてきた道雪は、武勇に優れた宗茂に家督を継がせたい・・・そして、それによって両家の結びつきを強くして主君である大友宗麟をいっそう盛り立てていこうと考えたのです。
しかし、宗茂は大事な跡取り・・・
道雪が、熱心に頼んでくるとその思いに心が動かされた紹運は、宗茂を養子に出すことにしました。
高橋家の家督は、宗茂の弟に継がせることにしたのです。
宗茂が道雪のもとに行く前日・・・紹運は、宗茂に言葉をかけます。
「これからは、わしを夢にも親と思ってはならぬ
敵味方に分かれることがあれば、お前は先鋒になってわしを討て
少しでも迷いを見せたら、道雪さまはそれを許しはしない
道雪さまから親子の縁を切られるようなことになっても、おめおめと帰ってきたりせず、潔く自害するが良い」
そして、自分と戦う時や自害する際にはこれを使えと、「長光の剣」を与えました。
宗茂はこの剣を、終生大切にしていたといいます。
一方、宗茂を譲り受けた道雪は、この時69歳。
35歳の時に落雷を受けた影響で歩行が困難でしたが、輿で戦場に乗り込み負け知らず!!
大友家臣団きっての猛将で、ついたあだ名は「鬼道雪」。
しかし、男子に恵まれなかったため、筑前国にある居城と家督は一人娘の誾千代に譲っていました。
誾千代の誾という字には、慎ましやかという意味が込められています。
非常に男勝りでプライドの高い性格でした。
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1581年、宗茂(15歳)は誾千代(13歳)と結婚、道雪の婿養子となりました。
厳しい道雪に鍛えられた宗茂は、その期待に応えていきます。
1582年、反大友勢の鎮圧に道雪と共に参戦。
敵軍に囲まれて苦戦していた道雪を助け、敵方の城を攻め落とすという活躍を見せました。
その甲冑から、宗茂の身長は180㎝という大柄で屈強だということが想像されます。
心身ともにひとかどの武将に成長した宗茂でしたが、全てが順調というわけではありませんでした。
この頃、主家である大友氏は、島津氏や竜造寺氏に押され、筑後国を失うなどかつての勢いはなく、宗茂の2人の父の奮闘によって、なんとか持ちこたえているような状況でした。
1584年、筑後国の奪回戦に、立花道雪と高橋紹運が参戦。
宗茂は1000の兵で立花城の守備を任されました。
道雪の不在を狙って押し寄せてきたおよそ8000の反大友勢を紀州などを用いて撃退しました。
しかし、翌年、筑後国の戦いを優勢に進めていた道雪が病に倒れそのまま亡くなってしまいました。
それを好機と見た大友氏最大のライバル島津氏が、5万ともいわれる軍を率いて筑前国に侵攻。
もはや、自分のみでは島津軍の侵攻を止められないと悟った大友宗麟は、天下人に大きく近づいていた豊臣秀吉に臣従を誓い、援軍を要請しました。
そして、宗茂の実父・高橋紹運は援軍が到着するまでの時間を稼ぐため、筑前国にある居城・岩屋城で島津軍を迎え撃ちました。
とはいえ・・・紹運の兵はわずか700・・・到底勝ち目はありませんでしたが、紹運は一歩も引かずに徹底抗戦を貫きました。
結果は、紹運を含む全員が討死!!
それでも島津軍に死傷者およそ4500人という甚大なダメージを与えたのです。
まさに武士の鑑だった高橋紹運・・・しかし、秀吉の援軍はまだ到着していません。
島津軍の矛先は、岩屋城からわずか4里・・・およそ16キロ離れた宗茂の守る立花城に向けられました。
二人の父を失った宗茂・・・しかし、悲しみに暮れる暇もなく、
1586年8月、宗茂の居城である立花城が島津軍に包囲されてしまいました。
宗茂軍が籠った立花城は、標高376mの立花山の山頂に築かれた堅固な山城でした。
その城で、宗茂は徹底抗戦の構えを崩さず、島津軍が降伏を迫っても応じませんでした。
すると島津軍は、豊臣秀吉の援軍が迫る中、立花城の攻略に時間を割くのは得策ではないと撤退を開始しました。
これを見た宗茂は、
「今が勝機!打って出る!!」
と、島津軍を追撃します。
怒涛の勢いで討ち取り、その数は一説に1000人以上。
さらに、島津方の城となっていた高鳥居城を攻め落とし、父・紹運が最後まで戦いぬいた岩屋城を奪回しました。
時を前後して、秀吉が送った援軍が続々と九州に上陸。
1587年3月には、秀吉自身も豊前国に入りました。
宗茂の奮闘を伝え聞いた秀吉は、いたく感心したと言われ・・・
その武勇を讃えた文書にはこう記されています。
”宗茂は九州の一物である”
秀吉は、総勢25万ともいわれる大軍を二つに分け、東西それぞれのルートで島津の本拠地である薩摩を目指すことに・・・。
秀吉は、西側ルートの指揮を執りその先鋒を任されたのが宗茂でした。
すると宗茂は、竹迫城、宇土城、出水城、大口城といった島津方の重要拠点を次々と攻略。
追い詰められた島津氏は、もはや勝ち目はないと降伏し、九州は秀吉の手によって平定されたのです。
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そして、1587年6月、宗茂は秀吉から
「その忠義鎮西一 その剛勇また鎮西一」
と、讃えられ、筑後国柳川13万2000石を拝領します。
21歳にして大友氏から独立し、豊臣家の直臣大名に取り立てられたのです。
13万2000石の大名となった宗茂は、立花城から柳川城に居城を移します。
宗茂はこの地で領国経営に力をつくしたと言われ、宗茂が農業用水の確保のために作った運河は、今も残り、立花宗茂の名をとって花宗川と呼ばれています。
家臣や農民からも慕われる良き殿様・宗茂・・・しかし、一つ問題がありました。
誾千代と別居・・・
誾千代が移り住んだ館は、柳川城から500mほどの位置にあり、別居の理由は今もはっきりとわかっていません。
子供がいなかったこともあって、2人は不仲だったともいわれていますが・・・
当時は、誾千代を当主と仰ぐ勢力もあったようです。
立花家内の勢力争いを解消するために城を出たのではないか?と言われています。
夫婦といううよりも、立花家を守る同志!!
二人はそんな関係だったのかもしれません。
立花宗茂 天下無双
豊臣秀吉から武勇を絶賛され、13万2000石の大名に取り立てられた立花宗茂。
主君となった秀吉のために、次々と武功をあげていきます。
宗茂が大名となった1587年の7月、肥後国で大規模な一揆が起きました。
秀吉はすぐに鎮圧隊を送りましたが、必死に抗戦する一揆勢は手ごわく、苦戦を強いられます。
すると宗茂は、1200あまりの兵を率いて肥後に入り、鉄砲隊を駆使して戦況を打破、時には1日に13度も戦い一揆勢が戦勝していた城を次々と落とし、およそ650の首を討ち取ったといいます。
一揆勢が降伏したのは、それから間もなくのことでした。
比類なき強さを再び見せつけた宗茂は、一揆鎮圧の翌年、従五位下侍従を授かり、豊臣姓を下賜されます。
そして1590年、宗茂は小田原攻めで集められた諸大名の前で秀吉からこう称賛されます。
「東の本多忠勝 西の立花宗茂 天下無双」
徳川四天王の一人である本多忠勝は、勇猛果敢で知られた猛将でした。
その忠勝と並び称されたのは、宗茂にとってこの上ない名誉でした。
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1592年、文禄の役・・・
3000あまりの兵を率いる宗茂は、明の軍と激突した碧蹄館の戦いで先鋒を務めます。
多くの将兵を討ち取って、日本軍の勝利に貢献します。
主将を務めていた小早川隆景から「立花の三千は他家の一万の軍勢に匹敵する」と、称賛されました。
二度目の朝鮮出兵・・・慶長の役でも、宗茂は落城寸前だった日本勢の城・蔚山城に駆けつけ、籠城していた加藤清正を救うなど活躍を見せました。
ところが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなると、朝鮮出兵は中止。
宗茂の運命も大きく揺さぶられることになります。
帰国した宗茂たち諸大名を待っていたのは、五奉行筆頭の石田三成と、五大老筆頭の徳川家康の対立でした。
秀吉の嫡男・秀頼を支え豊臣家を守ろうとする三成に対し、家康は天下取りの野心をたぎらせ勢力拡大していました。
1600年、石田三成は、五大老のひとり・毛利輝元を総大将に担いで家康を討つべく挙兵!!
すると、家康は、秀吉から天下無双と称賛された宗茂を東軍に勧誘します。
一説には、東軍勝利の暁には宗茂の所領を50万石に加増するという破格の条件を出したと言われています。
しかし、宗茂は、西軍に着きました。
柳川家臣団から東軍につくべきという声が上がり、三成との確執があった加藤清正からも西軍への参加を思いとどまるように言われますが・・・宗茂の決意が揺らぐことはありませんでした。
自分を大名に取り立ててくれた秀吉への恩顧に報いるため、西軍についたと考えられます。
また、毛利やその一族である小早川家は、朝鮮出兵で宗茂と同じ隊で戦っていました。
近しい関係だったので、行動を共にしたとも考えられます。
しかし・・・天下分け目の関ケ原に宗茂の姿はありませんでした。
1600年9月7日(関ケ原の戦いの8日前)
宗茂は、西軍から東軍に寝返った大名大津城主・京極高次を討つため、その居城である近江国の大津状を包囲。
大津は琵琶湖に面した交通の要衝だったため、寝返りに早急に対処する必要があり、その任を宗茂が任されたのです。
戦いは、鉄砲隊を使った宗茂が終始優勢・・・しかし、京極の軍勢を粘りを見せなかなか降伏せず、ようやく9月15日に城を明け渡しました。
9月15日・・・その日こそ、関ケ原の戦いが始まった日でした。
しかも、戦いはわずか半日で西軍の大敗に終わったのです。
納得できない宗茂は、大坂城に向かい西軍の総大将・毛利輝元に訴えます。
「大坂城に籠って徹底抗戦すべし!!」by宗茂
しかし、すでに家康と和睦交渉を始めていた輝元はそれを認めませんでした。
止む無く宗茂は領国・柳川に向けて撤退を開始。
するとその道中で西軍として戦った島津軍に遭遇します。
島津軍は、九州の覇権をかけて闘ったかつての敵で、宗茂の実父の仇でした。
家臣たちは、仇を討つ機会だと息を巻きます。
「敗軍を討つのは武門の恥」by宗茂
逆に、島津軍の護衛を申し出て、共に九州に帰りました。
宗茂の男気に島津義弘が感服したのは言うまでもありません。
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10月、柳川城に帰還。
すでに、この時家康の命を受けた鍋島直茂・加藤清正・黒田官兵衛たちが、柳川侵攻の気配を見せていました。
一説に、誾千代は、女官たちと共に武装し敵襲に備えていたといいます。
まもなく、鍋島軍3万が、柳川の領内に進攻。
立花軍の兵力はその1/10ほどしかなく、死力を尽くして戦うも、宗茂は将兵たちを失って行きました。
戦況を見守っていた加藤清正と黒田官兵衛は、これ以上の戦いは無益だと、宗茂を説得。
宗茂はそれを受け入れて、柳川城を明け渡しました。
宗茂を慕う領民たちは、「柳川を見捨てないでほしい」と懇願しますが、宗茂は、
「皆を戦に巻き込みたくない故降伏したのじゃ」・・・領民を巻き添えにしたくない宗茂の苦渋の決断でした。
関ケ原の戦いの後、改易された大名は88家・・・立花家もその一つで、所領も城も失った宗茂は、34歳にして浪人となってしまいました。
加藤清正や前田利長は、その器量を惜しみ仕官話を持ち掛けます。
しかし、宗茂はそれに応じることはありませんでした。
大名への復帰・・・立花家の再興を諦めていなかったからです。
その為宗茂は、加藤清正が治める肥後国に妻や家臣たちを預けます。
20人ほどの側近と京にのぼり、浪人生活を開始します。
当時の家康は、伏見城で政務を行うことが多かったので、近くにいてお家再興の機会をうかがっていたのです。
しかし、貧しい生活が続き・・・1602年10月、誾千代が死去。
立花宗茂 大名復帰
1606年9月・・・千載一遇のチャンスが・・・!!
家臣に宛てた手紙には・・・
”将軍様に召し出され候 まずもって当分 心安くこれあり”
これ以上家臣たちに苦労をかけずに済むという安堵の言葉でした。
そして宗茂は、2代将軍・秀忠と謁見、陸奥国棚倉に1万石を拝領・家臣として取り立てられます。
1万石は、大名と呼ばれる最低限の所領で、しかも柳川から遠く離れた東北の地でしたが、宗茂は6年ぶりの大名復帰を果たしました。
どうして将軍・秀忠は宗茂を召し抱えたのでしょうか?
「徳川実記」には、秀忠は武勇の誉れ高い宗茂を、将軍になった暁には召し抱えたいとかねてから考えていたと書かれています。
家康も健在だったことから、家康の意向を抜きには考えられません。
一説によると、家康は宗茂を高く評価しており、若い秀忠の相談役にしようと考えていたようです。
当時は大坂城に豊臣秀頼が健在でした。
宗茂を豊臣方に取られると大きな痛手となるので、先んじて召し抱えたのです。
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関ケ原の戦いで西軍についたため、改易されて浪人になるも徳川秀忠のもとで大名に復帰した立花宗茂・・・
大名復帰の4年後には、江戸御留守番に就任しました。
将軍の警護が主な仕事だったと考えられています。
それに伴い、宗茂の所領は3万石に加増、幕府内での地位も高まっていきました。
そして、大名復帰から8年がたった1614年・・・徳川が豊臣との最後の戦い・大坂の陣に臨むことになります。
立花宗茂 柳川に戻る
大坂の陣で、かつての主君・豊臣家を敵に回すことになった宗茂・・・
「秀吉さまへの恩は、関ケ原で返した」by宗茂
徳川家に仕えて8年・・・もはや、迷いはありませんでした。
この時、48歳。宗茂は、大坂の陣で重要な役を担います。
秀忠のそばにあって、軍事の指南役を担っていました。
2度に渡った大坂の陣・・・それは最終決戦・夏の陣の時のこと。
秀忠が宗茂に尋ねます。
「本陣をもっと前方に置くべきではないか」by秀忠
「敵は必死に攻めてくるため、本陣は後方にひくべきです」by宗茂
これには多くの者が異を唱え、結局本陣は動かしませんでした。
いざ戦いが始まると、豊臣軍の圧力に押され、本陣を1キロほど後方に下げることになりました。
重臣たちは、宗茂殿が正しかったと、自分たちの見通しの甘さを認め、さらに本陣を下げようとします。
ところが宗茂は、
「先ほどの戦闘で敵は力を使い果たし、動きが緩慢になっております
もはや、本陣を下げる必要はなく、このまま戦うべきです」by宗茂
すると、またしても宗茂の読みが的中・・・
敵はそれ以上攻め込むことが出来ず、至近距離から徳川軍の攻撃を受けた豊臣軍は、総崩れとなりました。
あまたの激戦を制し、勝ち方をよく知っていた宗茂は、軍師としてもまた天下無双!!
これを聞いた家康は、
「今後も宗茂とは懇意にすべし」と、秀忠に命じました。
その家康が、大坂夏の陣の翌年、駿府城で病に伏すと、秀忠は見舞いのために江戸城を留守にしましたが、その間、江戸城大手門の警備を任されたのは宗茂でした。
通常は譜代大名が務める任務で、家康の言葉通り、秀忠が宗茂を重用していたことが伺えます。
そして、1620年、54歳になっていた宗茂は・・・宿願を果たします。
立花家が改易されたのち、柳川には田中家が入っていましたが、跡継ぎがいなかったことで取り潰しに・・・
代わって宗茂が20年の時を超えて旧領に復帰したのです。
柳川藩10万9000石の大名に返り咲いた宗茂は、肥後国の加藤清正のもとに預けていたかつての家臣たちを柳川に呼び戻しました。
歓喜の再会・・・
関ケ原の戦いで失った旧領を回復したのは、立花宗茂ただひとりでした。
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立花宗茂が最後の勇士を見せたのは、1637年の島原の乱。
宗茂はすでに70歳を超えていたといいます。
3代将軍・家光の命を受けて参戦!!
幕府軍の総大将・松平信綱の補佐役を務め、敵の夜襲を的確に予想し、兵糧攻めを指示したり、往年の実力を見せつけ、一揆勢が立てこもる原城での戦いに一番乗りを果たした際には、武神が再来したと称賛されたといいます。
そして、76歳・・・波乱の生涯に幕を閉じました。
宗茂のかつての領地・福岡県柳川市に鎮座する三柱神社・・・
ここには、天下無双の名将・宗茂と、義理の父・立花道雪、妻・誾千代が御祭神として祀られています。
その為、復活の社とされ、現在も宗茂にあやかろうとする人々の厚い崇敬を集めています。
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