日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:黒船来航

大型船が頻繁に行きかう東京湾の玄関口・浦賀水道・・・
幕末、ここで日本を揺るがす大事件が起こります。
1853年6月3日、突然4隻の大きな船が現れたのです。
黒船来航です。
当時、和船の総トン数が100tだったのに対し、黒船(蒸気船)の総トン数は2500t・・・25倍の大きさです。
この黒船の来航をきっかけに、およそ260年続いた江戸幕府が崩壊へと進むこととなります。
日本の歴史を大きく変えた出来事でした。
どうしてアメリカは極東の小さな島にやってきたのでしょうか?
幕末の日本はどう映ったのでしょうか?

太平の 眠りをさます 上喜撰
       たった四杯で 夜も眠れず

”上喜撰”という緑茶と、蒸気船をかけています。
そしてたった四隻で幕府は不安で眠れない様子を揶揄した歌です。

アメリカ側でもそんな記録が残されています。
マシュー・ペリーは、アメリカから4隻の船で浦賀にやってきました。
蒸気船のサスケハナ号とミシシッピー号、そして2隻の帆船です。
艦隊は全部で63門の大砲を装備、臨戦態勢を布きながらを進め、午後5時ごろ浦賀沖に錨を下ろしました。
初めてみる日本・・・ペリーの第一印象は・・・

「投錨の直前に天候は晴れ上がり、富士山の高い頂がますますくっきりと見え、内陸部に広がる群峰よりはるかに高くそびえていた」

ペリーにとっても霊峰富士は強烈な印象だったのです。
ペリーが遠路はるばるやってきた目的は二つありました。
①アジア諸国と貿易をする拠点を作る
②捕鯨船の補給基地を作る
この時ペリーにはもう一つ重要な任務がありました。
アメリカ大統領の親書(国書)を日本に渡す任務です。
鎖国を続けてきた日本に、どうやってアメリカの要求をのませるのか?
ペリーは事前の日本の情報から日本人の特性を掴み、幕府との交渉方針を決めていました。

「排他的に振る舞い、気難しい人物を演じれば演じるほど、形式と礼儀を重んじる日本の人々は、こちらの目的を尊重するようになるだろう」

ペリーが浦賀に停泊すると、すぐに浦賀奉行所の船が近づいてきました。
そして役人のひとりがいきなり横断幕を広げたのです。
そこには当時ヨーロッパの公用語だったフランス語で「艦隊は撤退すべし!」と書かれていました。
もちろんアメリカ側も意味は理解していましたが、毅然とした態度をとっていたいペリーはこれを無視!!
しかし、幕府役人はなかなか引き下がりません。
ひとまず役人を乗船させ、部下のコンティ大尉を通してこう告げます。

「われわれはアメリカ合衆国大統領から、幕府将軍に宛てた親書をしかるべき役職の人物に受け取ってもらいたい」

ペリーは幕府の役職にある人物と会うことが交渉の近道だと考えたのです。
しかし幕府役人は・・・

「異国との交渉は、長崎でしか行えない
 親書は長崎で渡してもらいたい」

別の異国船が来航した際、この言葉で体よく追い返した例がありました。
今回も、帰ってもらおうとしたのですが・・・それを聞いたペリーは激怒!!
幕府役人を追い払ってしまったのです。
そしてここから全く開国する気のない幕府と、何としても国交を結びたいアメリカとの長い戦いが始まるのです。

黒船を見ようとたくさんの人々が浦賀に詰めかけます。
中には見物人相手に商売をする人も・・・
望遠鏡の貸し出し、船での黒船見学ツアーなどです。
ペリーの似顔絵も販売されました。

この時繁盛したのが武具師・・・
江戸幕府始まって以来、武具を使うことがなかったので、多くの旗本、御家人たちは持っていなかったのです。一斉に武具を買いに走りました。

ペリーはいきなりやってきたのではなく・・・幕府は事前にペリーが来航することを知っていました。
諸外国との交易・交流を制限する鎖国政策をとっていた幕府は、取引場所を長崎の出島に限定し、相手はオランダと清国とのみ交易をおこなっていました。
そして、その見返りとして彼等から欧米列強に関する情報を得ていたのです。
当初は開国を求めてやってくる他の欧米列強に対し武力での排除を行っていましたが・・・
1842年清国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、不平等条約の締結を強要されたという情報を得ると、大きく方針を変換・・・
1842年薪水給与令を出し、外国船に燃料や水を与え、穏便に帰ってもらうように指示を出していました。
アヘン戦争のころから、欧米列強の武力に脅威を感じ始めています。
”ペリー来航”の情報も、お蘭だから事前に知らされていました。

「アメリカ合衆国が艦隊を派遣し、交易をおこなうために日本へ渡来するとの事、司令官は当初オーリックというものであったが、ペリーなる人物に交代したようだ」

この風説書がオランダより幕府の手に渡ったのが1852年7月でした。
ペリーがアメリカを出発したのが10月でした。
ペリーがアメリカを発つ3か月も前に、オランダを通じてアメリカが通商を求めてやってくることを掴んでいたのです。
しかし、幕府は何ら手を打つことができませんでした。
当時の将軍は12代将軍徳川家慶・・・病気がちだったために老中首座・阿部正弘が政務を行っていました。
当然阿部は、オランダからの報告を聞いていましたが、この年・・・1852年5月22日江戸城西ノ丸御殿が焼失・・・。
再建工事に莫大な費用が掛かるために、軍費にお金を割くことが難しかったのです。
この頃、外国の情勢に詳しい薩摩の島津斉彬と会談した阿部は、こんな事を漏らしています。

「もしアメリカが来ても、なるだけ穏便に済ませ、長崎へ行ってもらうしかない」

そしてペリーが実際にやってきました。
阿部の指示通り、長崎へ行ってもらうようにしますが・・・拒否されてしまいます。
さらにコンティ大尉はこう脅してきました。

「浦賀でしかるべき役人が大統領の親書を受け取らなければ、我々は武装して江戸城へ向かう」

対応した浦賀奉行所・香山栄左衛門は・・・
「船の中は、緊迫した状況であり、アメリカ側は皆殺気立っていた」

幕府はようやくアメリカが本気だということに気付いたのかもしれません。
戦争は避けなければ・・・ようやく幕府は親書を受け取ることに・・・。

1853年6月8日・久里浜・・・6日目・・・アメリカ大統領の親書の受け渡しが行われました。
幕府は江戸湾の警備を行っていた彦根藩・川越藩などの藩兵を5000人配置!!
対してアメリカ側は武装した水兵300人!!
幕府の代表としてペリーを出迎えたのは、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道・・・
この時の様子をペリーは・・・
「戸田、井戸の両候は、初めから最後まで銅像のように動かず、一切言葉を発しなかった」
この日はあくまで親書を受け取るだけ・・・
余計なことを言わないように釘を刺されていたのかもしれません。
双方無言の中、13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書が日本側に渡されました。
そこには・・・
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給
それを渡したペリーは・・・
「来年の4月か5月にふたたび来日するので、その時に親書に対する返答を聞かせてもらいたい」
そう言い残し、アメリカがアジアの拠点としていた清国の広東へと向かったのです。
どうしてペリーはその場で交渉しなかったのでしょうか?

幕府はなるべく時間稼ぎをし、はぐらかし、アメリカを諦めさせようと考えていました。
幕府のペースに巻き込まれることを避け、効率よく時間をおいての交渉で決着しようとしたのです。

あっけなくペリーは去りましたが、阿部正弘は再びやってくるペリーにどう対応するのか?頭を悩ませていました。
すると阿部は、驚きの行動に出ます。
親書を一般に公開し、大名から庶民に至るまで広く意見を募ったのです。
時代が大きく動いていました。
全国から約800通の建白書が寄せられました。
一番多かった意見は、「アメリカの要求を拒絶し打ち払う」という案でした。
200年以上守ってきた伝統を崩したくない・・・
しかし、積極的に開国し、アメリカとの貿易で得た利益で軍備を強化するという意見もありました。

1635年、3代将軍家光の時に、「大船建造の禁」によって幕府も軍艦を所有できていませんでした。
阿部は、諸大名に対し大型船の建造を許可し、オランダへ軍艦を発注しています。
しかし、ペリーがやってくるまで9か月!!
ペリーが再来航するまでに強化できた軍備は、品川沖に台場を建設するぐらいでした。

幕府はアメリカン関する情報収集にも乗り出します。
土佐藩士の中浜万次郎を江戸に呼び、旗本格として登用しました。
ジョン万次郎で知られる中浜は、漁船で漂流後、アメリカで10年間暮らし、ようやく帰国したばかりでした。
万次郎は・・・
「アメリカはかなり前から日本と親睦を持ちたがっていました。
 メキシコとの海上戦でわずか4時間ほどでアメリカ側が勝利をおさめた」
などと、開国を進言!!
更に幕府は長崎奉行を通じてオランダ商館の館長クルティウスにも助言を求めます。
「アメリカの要望を一切無視したならば、戦争に発展しかねない
 試しに一港だけ開いてみたらどうか」
多方面から様々な意見を聴取した幕府老中・阿部正弘でしたが、いかにアメリカの要求をはねのけることが難しいか・・・痛感するばかりでした。

1854年1月16日・・・ペリーが再び来航!!
幕府は焦ります。
ペリーの予告では、4月か5月との事だったからです。
そこにはペリーの思惑がありました。
前回の来航直後、12代将軍徳川家慶が亡くなっていました。
そこで、その混乱に乗じれば、用意に条約締結に持ち込めるのでは?と考えたからです。
前回の来航後、ロシアも日本に開国を迫っていたので、他の列強国を出し抜いて、有利な条約を締結したいとも考えていました。
アメリカが要求したのは三つ・・・。
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給

日米両国の国益をかけた戦いの前に、水面下で駆け引きが始まりました。
この時ペリーは、長い航海で持病のリウマチが悪化・・・体調を崩していました。
それを聞き付けた幕府は、お見舞い品として大根800本、人参1500本、鶏卵1000個などを届けています。
対してアメリカ側も、幕府役人らを船に招待・・・
西欧料理や酒を出してもてなしました。
アメリカは船に生きた鶏、羊、イタリア人シェフまで乗せていました。
万端の準備をしていたペリー・・・。
食事でもてなすことで、友好的なムードを作り出そうとしたのです。

こうして当日を迎えましたが・・・両者が激突します!!
アメリカ代表のペリーに対峙したのは江戸幕府応接掛筆頭・林大学頭!!
冒頭、林は3つの条件のうち、難破した船員の救助と保護は承諾します。
そして石炭、水、食料の補給も承諾!!
しかし、両国間で通商を結ぶのは、国の決まりで出来ないと断固拒否!!
この時幕府側は、全てを拒否するのは難しいと考え、受け入れを最小限に止めるという方針に転換していたのです。
しかし、それを聞いたペリーは態度を豹変!!

「貴国は難破船の救助を行わないうえ、海岸に近づこうとしただけで発砲してくる
 さらに、漂着した外国人を罪人同様に投獄している
 貴国が国政を改めないならば、我々は戦争も辞さない覚悟である」

林を揺さぶろうと過去の非人道的な行為をあげて責めます。
しかし、林は動じません。

「外国船に発砲していたのは一昔前の話であり、漂着民に対してもオランダを通して長崎の出島から返還している」と、理路整然と反論!!
さらに通商に関しては・・・
「自国の産物で十分に事足りている」
と、きっぱり拒否したのです。
すると驚いたことに、ペリーは通商の要求をあっさりと取り下げてしまいました。
どうして・・・??
自分達の要求をすべて飲ませようとしたものの林大学頭らが手ごわいのを見て、方針を転換したのです。
全部を処理しなくても、国交樹立を最優先して段階的に通商を認めさせようとしたのです。
こうして日米の間で、ひとまず合意に至りました。
大筋では合意したものの、交渉はまだ終わりません。

日本にやってきたペリー・・・
日本のはじめて目にする日本の風俗や文化に驚きます。
ある時町の銭湯へ・・・驚愕!!
男女とも入り乱れて混浴!!
「日本人は道徳心に優れているのに、その道徳心に疑いを感じざるを得ない」

さらに既婚女性のお歯黒にびっくり仰天!!
「妻がこんな歯をしていたら、夫はものも言わず逃げ出してしまうだろう」

一方で日本人に器用さに感心します。
町で売られていた浮世絵のち密さとユーモアに感嘆!!
焼き物の磁器や漆器の優美な形と洗練されたデザインに魅せられます。

日本人がひとたび欧米諸国の技能を知ったならば、近い将来強力なライバルとなるだろう

日米の交渉は大詰めを迎えていました。
アメリカの蒸気船の燃料である石炭と水、食料の補給などをどの港で行うのか??
幕府は、当面は長崎で行い5年後に別の港を追加することを提案します。
それに対しペリーは・・・

「本来の趣旨を理解されていないようだ」

アメリカが日本に目をつけた主な理由は、太平洋航路の中継地点としたいからです。
太平洋に面していない長崎は、その狙いから外れているので、納得できるものではありませんでした。
ペリーはここでこんな申し出をします。
「大統領の命により運んできた土産の品々を贈呈したい」
献上品は、全部で140種類に及びました。
なかでも幕府の一港が目を見張ったのが、1/4モデルの蒸気機関車と、モールス電信機でした。
アメリカ側はそれらを実演してみせ、日本側を大いに驚かせます。

「日本人はいつでも異常な好奇心を示し、それを満足させるのに、画集国からもたらされた発明品の数々は恰好の機会を得た」

幕府も負けじと贈り物をします。
米と酒・・・ここで50人もの力士を導入し、1俵60キロもある米俵を片手に二俵づつ、計4俵担いで運ばせて・・・力士の怪力ぶりを見せつけます。
力士たちの巨体と怪力に、ペリーたちは圧倒されます。

「偉大な筋肉は、ヘラクレスのよう彫像のごとく、隆々と盛り上がっていた」

すると予期せぬ事態が・・・傍らでこのパフォーマンスを見ていた水兵が、力士に勝負を挑んだのです。
この思わぬ日米対決に、周囲は大興奮!!
しかし、勝負は一瞬でつきました。
そして力士は水兵に向かってこう言い放ったのです。

「強さの秘密は、日本の美味い米と美味い酒じゃ」

日本が大いに面目を施した瞬間でした。

北太平洋で操業を行う捕鯨船の補給基地に数カ所、清国と結ぶ太平洋航路の補給地として会談を行っていた横浜周辺を含め他に数カ所開港することを要求します。
幕府は、当面は長崎で、5年後にもう一つ追加することで押し切りたいと考えていました。
アメリカの要求を飲めば、長崎で取引をしているオランダも同じ要求をしてくるに違いない・・・!!

しかし、ペリーは執拗に林に食い下がります。
音を上げた林は、「もはや自分の裁量では決められない」と江戸へ戻り、幕閣たちに伝えたのです。
すでにペリーが再来して1か月がたっていました。
長期にわたる交渉に疲れたのか、これ以上拒むことは不可能と感じたのか、結局幕府が折れ、「箱館・下田」を開港すると通知。
ペリーもそれを承諾し、ようやく合意に達したのです。

「この湾にきてわずか5週間・・・
 この国と、この国の人々から大きな信頼を勝ちうることができた」

そしてペリーは日本側に感謝の意を示すためにおよそ70人の幕府役人を招待し、豪華な料理、バンドの演奏にダンス・・・役人の中には酔っぱらってペリーと肩を組む者もいたほど和やかでした。
こうして締結された日米和親条約(1854年3月3日)でしたが、その中には今後日本が他国とこれ以上好条件で条約を締結した場合、その内容が自動的にもアメリカにも適用されるという・・・アメリカに最恵国待遇を与えたのです。

そして黒船の来航は、およそ260年続いた太平の世を揺り起こします。
尊王上運動を誘発し、明治維新へと繋がりました。
ペリー来航から14年後、江戸幕府はついに大政を奉還します。
もしペリーがやって来なかったら・・・??
明治になるのはもっと時間がかかったかもしれません。

日米交流の扉を開いたマシュー・ペリー・・・日米和親条約締結からわずか4年後、アメリカで63歳で死去・・・。
ペリーが日本から持ち帰ったものが、今もアメリカに残されています。
初代大統領ジョージ・ワシントンの功績をたたえるために建てられたワシントン記念塔・・・この一部に幕府からアメリカに送られた伊豆下田の石が使われています。
日本とアメリカの友好の証として・・・!!

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池上彰と学ぶ日本の総理 第17号 大隈重信 (小学館ウィークリーブック)



今年は、明治維新150年です。
150年前、日本は近代国家の産声をあげました。
その近代化のシンボルが、鉄道でした。1872年9月12日、日本で初めて鉄道が開業。
疾走する陸蒸気に明治の人は熱狂!!
鉄道は文明開化のシンボルとなります。
この鉄道開設の立役者となったのが、大隈重信と伊藤博文です。
若き日の二人は、鉄道開設に向けて奔走します。

最大の問題は資金調達・・・見積額は現在の金額で1000億円
明治元年の政府歳入のほぼ半分に匹敵していました。
西郷や大久保は、軍備に使うべきでは??と、真っ向から反対!!
国内で無理なら外国から資金調達する?
当時、インドやアフリカでは西欧列強が鉄道を建設していました。
しかし、外国からの資金調達は植民地化を意味していました。

鉄道を日本が作れるのか?
日本が植民地に陥りかねない・・・という二つの危険を孕んでいたのです。
日本が経済発展できるのか?の分岐点・・・ターニングポイントでした。

東京・・・JR新橋駅・・・
日本初の鉄道は、新橋~横浜間で開業されました。
しかし、当時の新橋駅は、今よりも300m東にありました。
跡地は鉄道歴史展示室となっていて・・・開業当時の新橋駅を忠実に再現しています。
建物の中には、当時の遺構が残されています。
そこから見て取れるのは・・・
石積みの基礎の積み方は、互い違いに組み合わせる簡素な方法で、粗く削った石を使っています。
工期を短く、豊かでない財政の中で、出来るだけのことをやった様子が伺えます。

建物の裏手にも遺構が・・・
「0哩(マイル)標識」があり、日本の鉄道はここを起点に・・・鉄道の始まりの場所があるのです。
当時の双頭レールも保存されていて、経費の節約が伺えます。

玉川にかけられた六郷橋は木で作られていました。
当時、鉄鋼の輸入は非常にお金がかかるので、木を使って作ったようです。
さらに、それによって工期も短くできました。

絞り込んだ予算で短期間に作られた鉄道・・・。
その理由は、鉄道開設決定にまでさかのぼります。

明治2年・・・新政府の役人として大隈重信は、大倉大輔に就任・・・今でいう財務省次官に。
伊藤博文は大蔵省輔・財務省局長に任命されます。
上司と部下になった二人は、鉄道開設で意気投合!!
大隈と伊藤は鉄道建設建議書を政府に提出します。
鉄道建設予定ルートは、新橋⇔京都⇔大阪⇔神戸を結ぶ幹線と、敦賀に至る支線を一気に建設するという壮大なものでした。
ところが・・・予想もしなかった壁に・・・
鉄道反対の運動が全国に巻き起こり、公儀の建白書が寄せられたのです。

機関車は煙を吐く魔物だ
沿線の宿屋、駕籠屋が潰れてしまう

しかし、大隈と伊藤は必要性を滾々と説き続けます。
日本はいまだ近代化されていない
一昼夜に数百里を走る陸蒸気こそ、必要である

どうして二人はこれほどまでに鉄道にこだわったのでしょうか?
遡ること15年の1854年、アメリカ・ペリー提督が二度目の来航を果たします。
この時、江戸幕府へのお土産としてもたらされたのが、蒸気機関車の模型でした。
当時、この模型に試乗した役人の記録が残っています。

火発して 機活き 筒煙を噴き 輪皆転じ 迅速飛ぶが如く

蒸気機関車は、西洋の近代文明の威力を日本人にまざまざと見せつけたのです。
模型を自らの手で作ろうとしたのが、佐賀藩でした。
佐賀藩は、西洋技術の導入に積極的で、良質の鉄を製造する反射炉を作り上げ、西洋式の大砲も自ら鋳造していました。
安政2年、佐賀藩は手作りの蒸気機関の模型を完成させます。
試験運転は見事成功!!
佐賀藩のホープだった大隈重信も、この機関車を目にしたといいます。
観たこともない黒い鉄の塊が、速いスピードで動くのは、ショックでした。
日本が出来るだけ早い年数で、欧米に追い付くのは大変だと思った事でしょう。
しかし、やらないともっと悲惨なことになってしまう・・・!!

長州藩にも、鉄道に大きな興味を持っている男が・・・後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文です。
文久3年、伊藤はイギリスに留学。
この時、伊藤がイギリスで見たのは、産業革命で繁栄を極める西洋列強の姿でした。
そそり立つ巨大な建物、人々で溢れかえる都市。。。
その中核となっていたのは、物資と人を運ぶ巨大な鉄道網でした。
日本が近代国家となるためには、鉄道を・・・!!
二人は、鉄道が日本の近代化に不可欠であることを知っていたのです。

さらに、大隈と伊藤が鉄道開設を急いだのは・・・
出来てばかりの明治政府への危機感がありました。
戊辰戦争が終わっても、関東、東北では新政府への反感が強く残っていました。
民衆の不満が爆発する世直し一揆も各地で起こっていました。
何としても明治維新の信頼を作らなければ・・・!!

「全国の人心を統一するには、余程 人心を驚かすべき事業が必要である。
 鉄道が一番良い。」by大隈重信

今こそ、鉄道を開設しなければ・・・!!
政府要人を説得する二人・・・
明治2年11月10日、鉄道計画は正式に決定され、大隈、伊藤に全権が委任されました。
ところが・・・思わぬ壁が・・・
明治政府の実力者、大隈重信、西郷隆盛から反対意見が出たのです。

「外国の盛大をうらやみ、財力を省りみず、漫りに争を起こしなば、終に本体を疲らし、
 立ち行くべからざるに至らん。
 鉄道作りの類 一切廃止。」by西郷隆盛

鉄道開設に必要な資金はいまの金額で1000億円・・・
明治元年の政府歳入の半分近くに相当しました。
こんな事に政府の予算を割くべきではない??
結局、鉄道開設の許可は下りたものの予算はゼロ!!
資金調達は、大隈と伊藤が調達しなければならなくなりました。

明治3年3月・・・大隈と伊藤は、アメリカ公使のチャールズ・デ・ロングと対面します。
ロングは二人に切り出します。

「日本政府に金がないのなら、アメリカが金を出して日本に鉄道を作ってあげましょう。」

願ってもない出資の申し出・・・しかし、

「金を出す以上、鉄道の経営権はアメリカのものになりますよ。」

二人はロングの申し出を即座に断りました。
どうして・・・??
その頃、インドやアメリカでは、西欧列強による植民地化が進んでいました。
植民地に鉄道を敷き、自国に現地の資源を運ぶ手段としていたのです。
外国に鉄道の経営権を与えると・・・沿線は外国の支配下になる恐れが・・・
そして、その先には植民地化の可能性があったのです。

「日本の鉄道は、日本が自主権を持って建設する。」

それが、二人の基本方針でした。

この時二人は、もう一人・・・イギリス人投資家を名乗るネルソン・レイとも交渉していました。
レイは投資家仲間から個人的にかつ内密に資金を集めて日本に貸すと提案。
二人は考えます・・・イギリス国家が金を出して経営権を取るのなら問題だが、レイが個人的に貸そうというのなら、植民地化につながる恐れはないだろう・・・

大隈と伊藤はレイと契約します。
借入金は100万ポンド・・・を利率12%で!!

資金調達のためには已む終えない選択でした。
明治3年3月・・・鉄道予定地の測量開始。
大隈と伊藤は念願の鉄道建設にこぎつけたのです。

しかし、この時、日本の鉄道を巡って様々な思惑がうごめいていました。

レイと交わした詳細な約定書・・・
そこには、大隈と伊藤が見過ごしてしまった条件が記されていました。
”外国人技術者の雇用権はレイが持つ”です。
外国人を雇わないと鉄道が作れない・・・運行もマネージメントもできない・・・。
レイのコントロール下にある人しか雇えない・・・日本政府が自主的に選び、雇用条件を決められないのです。
さらに、イギリス国立公文書館に、レイが様々な利権を狙っていたことが保存されていました。
レイが闘志かなkまに宛てた手紙によると・・・
”日本は鉛・銀・銅・石炭に恵まれており、日本での事業展開が有望”と、鉱山資源にも興味を抱いていました。
鉄道を作るだけではなく、鉄道を作るためのお金を貸すだけではなく、日本のいろいろな産業・・・
外国に売る、もしくは外国から買う手数料も・・・
そのビジネスにも介在できるとレイは知っており、欲しがっていたのです。
レイは鉄道ばかりか、日本の産業をも支配下に置くことを目論んでいたのです。

明治3年6月・・・伊藤は横浜にあったイギリスの銀行で驚くべき情報を耳にします。
レイが無断でイギリスで公債募集をし始めたというのです。
9%の利子で金を集め、日本に12%の利子で貸そうというのです。
最大の問題は、内密に資金を集める約束を違えて、公然と金集めをし出したことです。
それは約束違反でした。
開設資金を外国から借りることが公になってしまう・・・。
伊藤はすぐさま、大隈にこの情報を伝えます。
契約を破棄する・・・??
情報の外部への漏洩を懸念する。。。
レイに依頼した資金調達は、あくまで内密に行われるはずのことでした。

しかし、この事実は瞬く間に日本中に知れ渡ります。
暴露したのは、契約を断られたアメリカ公使、チャールズ・デ・ロング!!
日本とレイとの契約破断が目的だったと言われています。
世論は沸騰!!

「大隈と伊藤は、恐れ多くも天皇陛下の土地を外国に切り売りしようとしている売国奴だ!!」

国中から轟々たる非難を浴びる二人・・・暗殺の危機です。
大隈は毎晩酒で恐怖を紛らわし、伊藤は明け方まで眠れない日々が続きます。
大隈と伊藤はレイとの契約を破棄!!
鉄道開設の資金調達は一からのやり直しとなりました。
この時、二人には3つの選択肢がありました。

①欧米列強に経営権渡すも止む無し
②あくまでも国内資金
③善意の第三者を探す

廃藩置県、中央集権体制、富国強兵・・・
日本経済を発展させるのが明治政府の大方針でした。
そのためには、人や物資を迅速かつ大量に運ぶ鉄道の開設が急務だと二人は考えていました。

いずれの選択肢も、待ち受けるのは危険な事態・・・どれを選択すべきか、二人は葛藤していました。

鉄道開設の猛反対を受けた大隈は、当時こう言っています。

「鉄道が、世間の反対ぐらいで挫折するならば、維新の改革など、みんな中途で失敗してしまうだろう。」

鉄道開設に執念を見せる大隈と伊藤・・・
そこで、彼らが相談したのは、以前から親交のあったイギリス公使、ハリー・パークスでした。
パークスは、イギリス政府への紹介状を認めます。
これが功を奏し、日本政府はイギリスの銀行から正式な融資を獲得!!
経営権は、日本が持つことに・・・。

どうしてこの融資を引き出せたのでしょうか?
そこには、イギリスの国策の転換がありました。
この頃、イギリス政府は植民地にかかる経費が問題となっていました。
そこでイギリスは植民地拡大ではなく、有利な貿易相手国を探すという外交政策をしようとしていました。
最早、日本の鉄道の経営権を求める必要はなかったのです。
調達した資金は、100万ポンド・・・。
しかし、反対する世論を抑えるために、70ポンドは財政再建に・・・
そのため、鉄道建築には30万ポンドしかつかえません。
そこで二人は、当初の計画を大幅に縮小し、とりあえず、新橋⇔横浜間の完成を・・・!!
二人が掲げたのは、神業のように早く工事を行う!!
その第一が、枕木の材質の見直し・・・
鉄よりも安く、加工しやすい木材を使うことに!!
玉川にかける橋の材質も見直し(鉄橋→木造)、あとは線路を敷設するだけ・・・
そう思われた矢先に、鉄道の計画路線上にあった品川の薩摩藩屋敷が立ち退きを拒否!!
大久保利通、西郷隆盛の二人は相変らず鉄道建設反対を唱えていました。
新橋⇔品川間では、薩摩藩屋敷、兵部省、漁民たちなどが移転を拒否。
線路を敷く土地が確保できない状態に・・・。
ここまで来て鉄道開設を諦めるのか・・・??

その時、大隈が・・・陸が駄目なら、海の上に線路を作ろう!!

品川の沖合に、高さ4メートルの石垣を組み、その上に線路を引いたのです。
新橋⇔横浜間2kmのうち10kmが海の上という世界にも例を見ない路線が完成しました。

明治5年9月12日午前10時・・・日本で初めて鉄道開通。
新橋駅プラットホームに停車した機関車が勢いよく走りだしました。
それはまさに、新しく生まれ変わろうとする日本の産声でした。
疾走する機関車に人々は歓声を挙げます。
午前11時・・・列車は横浜に到着。
所要時間53分・・・それまでの徒歩での所要時間10時間が一気に1/10に短縮されました。
反対派だった大隈重信も乗車し、日記に残しています。

「実に百聞は一見に如かず。
 此便を起こさずんば 必ず国を起こすこと 能はざるべし。」

若き大隈と伊藤の執念が実った瞬間でした。
のちに大久保は語っています。

鉄道というものは
驚くべき進歩を為して
驚くべき発達を為して
国の利益を捗取らす

開通当初から利益を上げていた鉄道は、収益性があるということで鉄道に対する投資は民間からたくさん集まるようになってきました。
大隈の予言通り、開設から20年後には北海道から九州まで全国に拡大し、日本の近代化の推進力として大きな役割を果たしていくのです。

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徳川慶喜家にようこそ [ 徳川慶朝 ]

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感想(1件)




千年の都・・・京都。
商業流通の町・・・大坂
日本有数の港町・・・神戸
今から150年前の幕末、関西の要所が西洋の軍艦によって戦火に包まれる危機がありました。
事件が起きたのは・・・明治になる3年前の1865年。
イギリス・フランス・アメリカ・オランダの9隻の連合艦隊が突如大阪湾兵庫沖に侵入・・・!!
四か国連合艦隊 摂海侵入事件です。
西洋列強4か国は、幕府に強硬な要求を通告します。
「我々の要求がのめなければ、自由行動(軍事作戦)を開始する!!」
彼らの要求とは、当時、幕府との間で結ばれていた通商条約を条文通り、幕府に実行させること。。。
そこで問題となったのが、京都の孝明天皇でした。
幕府が通商条約を実行できなかったのは、孝明天皇が反対していたからです。
勅許をえるように・・・!!
幕府・天皇・西洋列強!!三つ巴の中、その日本の運命を担って解決に挑んだのが一橋慶喜・29歳・・・徳川将軍になる前年の事でした。

究極の選択に迫られる慶喜・・・!!
天皇の意志を重視し、列強と戦うのか??
天皇と対立して内乱への道を進むのか・・・??


静岡市・・・久能山東照宮・・・初代将軍・徳川家康が祀られています。
ここに慶喜の数奇な生涯を示す「一振りの刀とその拵」。

「刀 付 菊桐紋絲巻太刀拵」

これは、慶喜が将軍に就く2年前、28歳の時に、京都での活躍に対する感謝の品として拝領したものです。
鞘には五山桐と菊の紋・・・
この刀を慶喜に与えた人物こそ孝明天皇でした。
慶喜は幕府のトップに近い要人ながら、天皇にも信頼され、忠義を尽くす・・・珍しい立ち位置でした。
1837年、慶喜は徳川御三家の一つ水戸徳川家の七男として生まれました。
水戸藩は名門ではあったものの、一人の将軍を出したこともありませんでした。
慶喜は七男・・・将軍など縁遠いものでした。
しかし、慶喜は普通ではなく・・・子供らしからぬ・・・才気みなぎる少年でした。
優秀さが噂となり、11歳で一橋家の跡継ぎとなります。
一橋家は、江戸時代の半ばに作られた徳川の分家で、将軍の後継者を本家に提供する役割を持っていました。
異例の大抜擢でした。
幕府権力の中枢に、一気に近づいたのです。

そして慶喜17歳の1853年・・・アメリカ・黒船来航!!
西洋列強も続々到来、幕府は欧米5か国から通商条約を結ぶように迫られました。

京都では・・・孝明天皇が外国船を打ち払う攘夷を唱え、通商条約に断固反対の姿勢を示します。
が、幕府大老・井伊直弼は独自の外交を貫き、1858年天皇の勅許をえないまま、通商条約を調印してしまいました。
天皇は激怒!!
これ以降、朝廷と幕府は激しく対立していきます。
この非常事態に慶喜は無鉄砲な行動に出ます。
22歳の慶喜は、役職もないのに直接批判しました。

「条約の調印後も、その説明のために京都に上らないことは、帝に対し、なんと不敬である事か。
 その罪は大きい。」by慶喜

井伊が天皇を軽視することへの怒り・・・!!
どうして幕府よりも朝廷を重んじたのか・・・??
それは、慶喜の実母・登美宮吉子にありました。
京都の皇族から水戸・徳川家に嫁いできました。
この母方から先祖を辿ると・・・有栖川宮・・・江戸中期の霊元天皇につながります。
一方父方が将軍家とつながるのは家康まで登らなければなりません。
つまり、天皇家の血筋を濃く引き継いでいるのです。
慶喜は、強圧的なアメリカの態度に、条約を結ばざるを得なかったことを承知していました。
手続きの問題・・・つまり、勅許にこだわっていたのです。
慶喜は幕府内で孤立します。
おまけに将軍にもなり得る一橋家の当主・・・
幕府から三年半の謹慎を受けることとなります。
慶喜にとって理不尽な仕打ち・・・しかし、当てつけるような態度で謹慎をします。

「朝から裃を着用して、暑い夏でも沐浴もしない。
 幕府の監視はなかったが、身に覚えのない罪を被ったため、むしろ厳重に謹慎したのだ。」by慶喜

その後、謹慎が解けた慶喜は、幕府に復帰し京都へ・・・!!
通商条約で対立を深めた孝明天皇との交渉を幕府から任されます。
それは、天皇が望む攘夷を幕府が約束するというもの・・・。具体的な方法・期日について、曖昧にすることが重要でした。
それは・・・幕府がすでに諸外国と開国の約束をしていたからです。
天皇には「攘夷」、外国には「開国」・・・二枚舌を使っていました。

しかし、慶喜は京都で衝撃を受けます。
過激な攘夷を主張する者たちが、開国派の人々を相次いで殺害・・・幕府は京都の無法状態を抑えることが出来なくなっていたのです。
有力な公家の元には、攘夷派の武士たちが頻繁に出入りし、天皇や朝廷の力と結びついて、幕府政治の転覆を目論んでいたのです。

慶喜は追いつめられます。
京都は攘夷一色!!
天皇と幕府の和解を最優先すべき??

朝廷で景気は、幕府の方針通り攘夷の実行を約束します。
ところがさらに・・・期日を5月10日と具体的に定め、通商条約の破棄まで明言してしまいました。
まず解決すべきは国内問題!!
攘夷の具体化と条約破棄で、予測される西洋列強との外交問題は後回し・・・
慶喜の苦肉の策でした。

幕府を存続させるためには、朝廷と絶対に関係を切ってはならない!!
むしろ、朝廷と結合を強めることによって幕府を生きながらえさせる!!
これが自分の使命だ・・・!!

1864年朝廷に働きかけ、京都で新たな役職”禁裏御守衛総督”を得ます。
これは、幕府側に立つ会津藩(京都守護職)や桑名藩(京都所司代)、新選組などの実力部隊を使って治安を維持し、孝明天皇を守る役目です。
その狙いは、藩幕府勢力を一掃することで、幕府と天皇の和解を進めることでした。
慶喜は一橋家家臣に・・・
「われらは天皇の御恩と幕府将軍の命に背くことがあってはならない。」と、したためています。
幕府と天皇の和解を目指す・・・!!

幕府は「開国」の方針を「攘夷」へと変更!!
既に開港していた横浜から、外国船の締め出しを決定。
通商条約の見直しを西洋列強に通告。
慶喜が天皇に攘夷の具体的な実行を約束してしまったからです。

当然、列強は激怒!!
「通商条約の廃止を求めることは、我々に対する宣戦布告も同然である!!」
彼らは実行に動きました。
1865年9月16日、イギリスを中心とする4か国・9隻の連合艦隊が大阪湾・兵庫沖に侵入!!
西洋列強は、幕府を開国するために、強硬姿勢を見せたのです。

幕府を特に困らせた要求項目は・・・
「条約の公的な承認を帝に求める」
将軍が条約の順守を行わせられないならば、もはや将軍を正式の政府として見ないで、本当の政府を探しに行くというのです。
攘夷を訴え通商条約に反対を続ける孝明天皇から、西洋列強は勅許を引き出せというのです。
さもなくば、兵を率いて京都の朝廷に乗り込み、直接交渉すると脅しました。

9月26日、老中たちは、西洋列強に対する回答案を固めます。
「朝廷にはお伺いはたてない。
 兵庫の開港を行う。」と。

老中たちは孝明天皇の勅許を受けられないと判断し、西洋からの要求のうちの「勅許」は拒絶!!
その代わり、通商条約に記されている兵庫の港をすぐに開港すると回答。
一方、兵庫は京都に近い港なので、攘夷派が納得するとは思えない!!
しかし、幕府は列強との戦いを最も恐れたのです。
「列強と兵端を開いて敗れ、属国となってはならない。」と。

そして3日後・・・9月29日、孝明天皇は激怒し、
「外交担当の老中の官職を召し上げ、国元に謹慎させよ。」

攘夷の約束を反古にした・・・この幕府に対する朝廷の人事介入で、両者の関係は崩壊!!
10月4日、兵庫沖・・・両者の混乱を知り、イギリス公使パークスは、将軍家茂に対し、天皇の条約勅許を求める最後通牒を発します。

「3日後の10月7日に回答がなければ、幕府将軍が公式に要求を拒絶したものと見なす。
 われわれは、自由行動をとることになるだろう。」

自由行動とは、京都に攻め上り、軍事作戦を開始するという意味・・・
こうして日本は、西洋列強との開戦が避けられない状況に追い込まれていきました。

万策尽きた幕府・・・しかし、最後の頼みは、朝廷と太いパイプを持つ慶喜でした。

日本の運命を左右する選択が慶喜に・・・
天皇の怒りを買ってでも、勅許を願い出るのか??
国内の混乱を鎮めるために、勅許をもらわないままにするのか・・・??

10月4日夜6時・・・御前会議。
慶喜は朝廷で孝明天皇の出席する御前会議の開催を要求します。
朝廷側・・・皇族・公家10人
幕府側・・・慶喜・会津藩主など4人
そこで慶喜が選んだのは・・・

「今や、列強と海鮮寸前の模様であります。
 条約のお許しをいただきたい」by慶喜

孝明天皇に条約の勅許を求めました。
孝明天皇の信頼を捨てても戦争回避をしなければ・・・!!
と望んだのです。
会議の出席者・朝彦親王の日記には・・・
「ご勅許なければ天子様すら京都に押し寄せた外国兵にナデ殺しにされますぞ!!」と、慶喜が迫ったと言っています。
これに対し、関白・二条斉敬は
「列強の脅威に屈して帝が勅許を下すなど、そんな帝の御威光を損ねることはなりません。」と・・・

激論の末・・・10月4日深夜・・・
内大臣・近衛忠房から驚くべき提案が・・・
「朝廷より使者を列強に差し向けるのがよろしかろう。」

それは、幕府を飛び越して、朝廷が交渉しようという発言でした。
この策を授けたのは・・・大久保一蔵・・・後の大久保利通です。
この機会に幕府の外交権を取り上げて、政権を転覆させてしまおうとしたのです。

「列強との交渉を行う使者には、薩摩の者が付き従う。
 交渉では列強に回答の延期を求める。
 そのうえで、有力な大名を京都に召し上げ、天下の合議をもって条約を認めるかどうか話し合うべきだ。」by大久保一蔵

国内の勢力を天皇中心とする朝廷に集中し、政治の実権まで幕府から奪おうとするものです。
これが通ってしまえば幕府が無くなってしまう・・・!!

会議の場で慶喜は反論します。
激論!!激論!!
慶喜は、みんなが疲れ始めた頃を見計らい、天皇からの勅許をえるため・・・
慶喜は、京都にいた有力藩の家臣30人余りを、緊急に召集。
天皇の御前で、諸藩を交えた国家方針の話し合いをする場を設けたのです。
慶喜は、集まった一人一人に、条約に対する賛否を問います。
その採決を取ります。
彼らの総意なら・・・天皇の権威に傷はつかない・・・??勅許はとれる・・・??
慶喜は、16藩の京都留守居役レベルの藩論を代表しうる人間を集めていました。
この御前会議が公儀輿論の結集として国会史を作る・・・!!
慶喜も譲歩した結果でした。
孝明天皇も、自分の意志で国内が大動乱となり、数多くの人間が死ぬこと・・・それを変えるためのお膳立てはこれしかありませんでした。
16藩のほとんどが、条約勅許やむなし、薩摩藩ともう1藩が勅許反対でした。
具体的なことを・・・!!と、薩摩が行う外交策を示すように大久保に詰め寄ります。
追い込まれた大久保は・・・全く無策でした。

そして慶喜は、孝明天皇に条約勅許の決断を求めます。

「かくまで申し上げ、ご勅許なければ、私はこの場で腹を切ります。
 我が家臣が、どのようなことをしでかすかわかりませんぞ。
 そのお覚悟あらば、御存分になされい。」

覚悟を迫る言葉が、天皇の聖断を決める一言となりました。

10月5日夜8時・・・始まりから26時間後・・・
回答書が・・・
ギリギリパークスに7日深夜に届けられます。

「条約は、京都にてお許しいただくことができた。」

それは、攘夷運動に終止符を打つこととなりました。

条約勅許によって、天皇が通商条約体制を認めることとなる・・・
当時の支配権力の中で、公式に異を唱えることが出来なくなってしまったのです。
幕府中心で従来のやり方でやっていくのか?
有力大名を集結し、新たな体制を作るのか・・・??

公儀政体の動きが始まったのです。

列強艦隊は撤退し・・・日本は全面開国・・・
1868年、鳥羽伏見の戦い・・・内乱が勃発!!
明治天皇を巻き込んだ薩摩と、慶喜の旧幕府軍は正面から激突!!
その時・・・「錦の御旗」が薩摩軍から上がります。
”朝敵”・・・幕府軍は総崩れとなり、慶喜は戦意喪失・・・
家臣を置き去りに、江戸に逃亡!!
天皇に徹底的に服従する姿勢を貫き、明治の代を迎えるのです。
しかし、鳥羽伏見の逃亡劇は、生涯の汚点として後世に語られています。



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186033日・・・


銃声を合図に・・・前代未聞・・・白昼江戸城の前で最高権力者が殺されました。

雪景色は見る見るうちに赤く染まりました。

殺されたのは井伊直弼・・・桜田門外の変です。ii











幕末維新の政治家たちは・・・

「その責任を全く一人に帰化し隻手狂瀾を挽回せんとす」勝海舟

「国難に臨んで 天 英雄を生じ これ英断を為した」大隈重信

と褒めています。

その一方で、井伊の赤鬼と呼ばれていました。

はたして、近代化を導いた改革者?独断専行の鬼?どちらだったのでしょうか?


江戸幕府最後の大物政治家・井伊直弼、そのキャリアはわずか10年でした。
混乱・激変していた時代・・・

185011月彦根藩主に就任。

藩祖は、徳川四天王の井伊直政。赤備えの甲冑で有名です。

以来、譜代大名筆頭としてありました。

200年の徳川幕藩体制を根底から覆す事件が起こります。

185363日黒船来航。

老中首座の阿部正弘は政治改革の必要性を痛感します。

もともとは、御座の間・御用部屋・溜間(彦根・会津・高松藩)で行われていましたが・・・

門閥制度では、優秀な人間は育ちません。

家柄によらず、有能な人物を登用します。

開国・通商についても・・・今まで聞くことのなかった大名にも意見書を出させます。

それは外様でもです。

海岸防備には、薩摩や長州の協力も必要でした。

直接政治に意見する立場ではなかった御三家や家門にも伺いを立てます。



直弼たちの前に立ちはだかったのが、水戸藩・徳川斉昭でした。

「外国を断固打ち払うべきである!!」と、主張します。

他の大名たちも、攘夷・鎖国を主張する中、直弼は・・・開明的な意見を出します。

外国との戦争を避け、富国強兵を図り、日本を守る!!と。

翌年、ペリーがやってきて、通商条約の調印を迫ります。

緊急会議では、斉昭と直弼が真向から対立します。

他の奉行や老中は直弼に賛同し・・・斉昭を徹底的に退けます。

185433日日米和親条約調印。

ペリーの通商条約はかろうじて食い止めます。

が・・・上層部は、もはや開国は避けられないと、思っていました。


 

続きを読む

日本の政治の中枢・国会議事堂・・・ここからわずか600mにある桜田門。

ここで、1860年3月3日、一人の男が暗殺されました。
井伊直弼、徳川幕府のNo,2でした。

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家康の徳川四天王と呼ばれた井伊直政を祖先に持ち、譜代筆頭の家に生まれた井伊直弼。
ペリー来航に揺れる時代に、幕府のNo,2として奔走します。
そして、この男が暗殺されると、幕府は衰退し、武士の世が終わることになりました。

この井伊直弼と切っても切れない深いかかわりを持つのが徳川斉昭。最後の将軍慶喜の父にして、徳川家のNo,2に君臨した男です。

No,2VSNo,2の戦いのゴングは、黒船の来航によって叩かれました。

井伊直弼のイメージが悪いのは、安政の大獄で吉田松陰を死刑にしてしまったためです。
吉田松陰は、明治政府にとって多くの元勲を輩出しました。西郷や大久保、新政府の伊藤博文や山縣有朋などです。
勝てば官軍・・・最大の理由は、明治政府は吉田松陰の弟子が作ったためでした。

桜田門外の変で井伊直弼の首をとったのは、薩摩藩出身の有村次左衛門ですが、攘夷派の水戸浪士の犯行でした。徳川斉昭が陰で操っていたという証拠はありませんが、安政の大獄で斉昭が失脚させられたのを恨みに思った志士の犯行だったようです。

では、2人の確執はどこから始まったのでしょうか?

ROUND1
1853年6月3日黒船来航。
ペリーが開国を求めるアメリカの親書を持ってやってきます。期限は1年後。。。
筆頭老中阿部正弘が各大名に尋ねたところ、攘夷がほとんどでした。
その先頭が斉昭で、彼は、海防参与も兼ねていました。

これに対して真向から異を唱えたのが、彦根藩主井伊直弼でした。
かれは、日本も大型船を作り、航海術を学び、外国と交易する・・・開国を唱えていました。
しかし、斉昭は直弼を鼻であしらいます。
それは、藩主になってからも日が浅く、14男。彦根藩の家臣ですら見向きもしていなかった男だったのです。

32歳まで過ごした彦根市にある埋木舎。そこからは彦根城が見えましたが、登城も許されない部屋住みの身分でした。それは、他の兄弟たちは他家へ養子に行く中、直弼にはお声もかからなかったからです。



年老いた家来と、わずかな捨扶持での生活。もはや当主になろうとは本人も思っていなかったでしょう。
「世の中を
  よそに見つつも  
   うもれ木の
 埋もれておらむ
   心なき身は」
花を咲かせることも出来ない人生・・・。
養子の口でもない限り、正式な奥さんももらえない生活。。。
しかし、直弼には寵愛する「村山たか」がいましたが、彼女の身分は低く、藩主になると正室には出来ない存在でした。

そんな中、藩主の兄が57歳で亡くなります。
で・・・直弼に白羽の矢が立ったのです。

直弼が江戸に出て親しくなったのは3人。
当代きっての名君・松平容敬、佐賀藩主にして蒸気機関車を作った・鍋島直正、佐倉藩主にして幕閣一の西洋通・堀田 正睦。
この3人から世界常識を学んだ直弼は、開国の必要性と攘夷の無謀さに気づきます。

1年後、約束通りペリーが7隻の軍艦を率いてやってきます。
幕府は、開国か鎖国かでもめます。
鎖国派・斉昭VS開国派・直弼。。。
斉昭は、面々から鎖国継続に自信を持っていました。が、この日大名たちが出した結論は、「開国」
直弼が大名たちを説得していたのです。

1854年3月3日、日米和親条約締結。下田・函館を開港。
アメリカは、日本に来るときは、大西洋を通りインド近くを通り、中国を通ってやってきていました。しかし、太平洋を渡ると日本はアジアの入り口、アジアの近道をするためには石炭や水の補給地が欲しかったのです。

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ROUND2
病弱な家定の後継者争い。
斉昭が推すのは、一橋慶喜・19歳。
斉昭の7男で評判も高く、水戸藩から将軍を出したいと御三卿の一つ、一橋家に養子に出していました。

直弼が推すのは紀州藩の徳川慶福・10歳。
12代将軍の弟であり、家定のいとこに当たりました。

混乱した時代に10歳の将軍?

斉昭は、薩摩藩主・島津斉彬や土佐藩主・山内容堂ら外様大名と手を組み、慶喜擁立運動をしますが、これが裏目に出、先送りに・・・。

そんな中、1857年10月アメリカが、日米修好通商条約を打診してきました。

ROUND3

直弼としては、開国した以上貿易は仕方がない。これには多くの大名も同意していました。
が、修好通商条約の締結には孝明天皇の許可が必要でした。

斉昭は、これを後継者争いに利用します。
大公と義兄弟というコネを使って・・・鷹司に使者をだし、「勅許が欲しければ将軍後継者を慶喜にしなさい。」と、天皇に行ってもらおう。と画策します。

直弼は、関白に慶喜擁立に反対する理由を書状にしたためます。
①後継者を決めるのは将軍であり、外様や公家ではないということ。
②「慶福に決めている」と、将軍が言っている。


この後継者争いは、突然決着します。家定は、「慶福に!!」(のちの家茂)と宣言します。
そして、直弼を大老に任命します。
この時直弼は幕閣のNo,2となり、徳川家のNo,2斉昭と対等に戦える存在となったのです。

当時は、10歳であろうと、血筋が濃いかどうかで将軍は決まりました。おまけに、家定やその母に嫌われていた斉昭。。。直弼は斉昭をつぶすために、家定が大老に任じたのです。


正真正銘のNo,2となった直弼。しかし、開国を阻む最大の難関が・・・。

修好通商条約の締結に関して天皇の許可をもらうこと・・・です。

第2次アヘン戦争に勝利したイギリス・フランスの連合艦隊軍40隻が、日本に来るという情報が入りました。
ハリスは、修好通商条約を締結してくれたら、日米安全保障条約を付ける。つまり、イギリスやフランスから守ってくれるというのです。

植民地化を防ぐため、直弼は汚名をかぶります。
1858年6月19日、勅許のないまま日米修好通商条約締結。。。


ROUND4
勅許のないまま修好通商条約を締結したことに腹を立てた斉昭は、直弼に切腹させるため江戸城に・・・
しかし、直弼は公務を盾に現れず、時間だけが過ぎていきました。

夕方ようやく姿を見せた直弼。しかし、斉昭に朝の勢いはなく、押しかけ登城の責任を負わされ謹慎。
直弼に軍配があがったかに見えました。

2か月後の8月18日。
京都から書状が・・・
そこには、大老の直弼を無視して、斉昭に勅書が送られたことが書かれてありました。
「戊午の密勅」です。これは、勅許をとらなかった幕府をとがめ、水戸を中心に尊王攘夷行動するように書かれたものでした。

幕府としては、ショック!!戊午の密勅を無効にします。「天皇を無効にしていいのか!!」と、反発を食らいます。

これが、安政の大獄へと繋がっていきます。
安政の大獄では、水戸家老が切腹、勅書を届けた人間を死罪。そのほか、逮捕されたもの百余名、命を落としたもの14名にも上りました。
直弼は、その苛烈さから「井伊の赤鬼」と呼ばれることになります。

その意図は、禁中並びに公家諸法度で管理されている筈なのに。。。
当時天皇は、「開国はしたくなかった」ので、公家や水戸・志士が組んだことに直弼としては
「天皇を政治に利用するとは何事だ!!」と怒ったからです。
そして、天皇から水戸に直接はおかしい、やはり将軍を通すべきだ!!
将軍家を立て直すため、譜代の筆頭としての痛切な使命感から赤鬼になったのです。

1860年3月3日江戸城出仕の前の直弼に一通の書状が・・・
それは、早朝屋敷に投げ込まれたもの。
内容は、水戸浪士が大老襲撃を決行しようとしているので、出仕を控えるように。とありました。

しかし、直弼は出仕します。

井伊家から桜田門までおよそ500m。付くのは侍26名を含む総勢60名。

雪煙の中で斬り合いが・・・。

襲撃したのは水戸脱藩浪士17名、薩摩脱藩浪士1名。およそ15分前後。。。

暗殺の理由は、勅許なくアメリカと条約を結んだこと。
天皇の意向を汲まず、安政の大獄でたくさんの人を殺したこと。


彦根藩の若い藩士は水戸襲撃を主張しますが。。。
上層部は家名存続を優先します。というのも暗殺されるということは、士道不覚悟で、藩がおとり潰しになってしまうからです。幕府も戦を怖れ、お互いに隠ぺい工作がなされます。

「襲撃されるも撃退。しかし、けがをして出仕できないので、本日出仕を取りやめる。」としました。
翌日幕府側は、病気見舞いと称して朝鮮人参を持った使者を藩邸に。。。

直弼が生きているという茶番劇が行われました。
町人でさえ知っていたというのに。。。

直弼の墓に刻まれた命日は、3月28日。。。
つまり、井伊家は直弼の息子の直憲に家督相続をさせることを幕府に認めようとさせ、幕府は水戸藩に放棄するよう求めた。ようやく決着がついたときの埋葬だったので、タイムラグが生じたのです。


桜田門外の変のリーダーは関鉄之助。後に首を斬られます。
罰したのは斉昭。関与していたからそれを隠すためとも、関与していなかったので憤慨したとも言われています。
直弼の死から半年後の8月15日。水戸藩邸で斉昭が急死しました。あまりの急なことに彦根藩士による暗殺説も出たほどでした。
しかし、その真相は定かではありません。

幕府は軍事政権です。だからこそ、井伊直弼暗殺は幕府の権威が徹底的に失墜した事件でした。
そして一気に討幕へ・・・。

最近、直弼のラブレターが発見されました。
20代後半の時に書いたものです。
「名もたかき
  今宵の月は
   みちながら
 君を知らねハ
  事かけて見ゆ」
たかに宛てたものです。
直弼は、和歌も、歌も、書も・・・芸術的な人だったようです。
だから、たかも身分は低かったもののそんな直弼の相手となれるような賢い人だったと言われています。

たかは、直弼が江戸に行った後京に行き、勤皇の志士たちの情報を直弼に知らせていました。
暗殺されると尼となって、生涯位牌を守り続けました。

赤鬼と呼ばれた男、本当に極悪非道だったのでしょうか?


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